2012年1月8日の礼拝メッセージ~「キリストの再臨と福音宣教」~全ての人々とユダヤ人に福音を宣べ伝えるために

昨年1月のメッセージですが、大切な考え方を言われていますので、ブログに書いておきます。

2012年1月8日、峰町キリスト教会安食弘幸牧師による礼拝メッセージの要約です。

【参照する聖書の箇所】
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使徒の働き1章8節~12節
8:しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、
  エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
9:こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
10:イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た
  人がふたり、彼らのそばに立っていた。
11:そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ、天を見上げて立っているのですか。
  あなたがたを離れて、天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが
  見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
12:そこで、彼らは、オリーブという山からエルサレムに帰った。その山は、エルサレムの近く
  にあって、安息日の道のりほどの距離であった。

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【礼拝メッセージ要約】
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「門松は、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし。」

これは、一休和尚の歌ですね。門松は、お正月を意味します。
みんなが門松の前で、「おめでとう。」「おめでとう。」と挨拶をしているけれど、

「ちょっと待てよ。」と。

新しい年を迎えたということは、それだけ自分が冥土に行く、つまり死ぬという日が
近づいたわけじゃないか?とすれば、おめでとうと言っているけど、本当におめでた
いのかな?と、まあ、一休さん独特の冷静な見方といってもいいでしょうね。

でも、これは、一つの人生観から出た歌だと思いますね。

つまり、”死”というものを避けたい、出来るだけ遠ざけておきたい、でも、否応
無しに、それが近づいてくる。そう考えたら、あんまり、めでたくもないなあという
ことでしょうね。

もし、一休さんがクリスチャンだったら、もうちょっと違った歌になると思います。
    
「門松は、天国の旅の一里塚、嬉しくもあり、楽しくもあり。」

ということになりますね。つまり、その人の人生観というものが、必ず、その方の
生き方に反映されていくわけです。人間という者は、既に持っている知識があります。
新しい物に触れると、持っている知識でそれを理解しようとするわけです。

例えば、あるところに、「自分は、人間ではない」と思いこんでいる人がいました。
ですから、周りは迷惑するわけですね。ある時、みんなが彼を病院に連れて行きました。
そして、ドクターが、一生懸命、医学的な見地で、「あなたは人間である」ということ
を説き聞かせるわけです。そして、最後にこう言います。

ドクター:「あのね、人間というのは、体に血が流れていて、どこかちょっと切ると、
      血がでるんですよ。だから、あなたの体を、ちょっと切ってみますからね。
      血が出たら、人間ということですよ。いいですか?」


彼:「うん、まあ、そういうことですね。」

で、彼の指先に、ちょっとメスを入れました。すると、血が出てきたわけです。
それを見た彼は、こう言いました。

彼:「先生!人間じゃなくても、血が出るんですね!」(笑)

まあ、自分の思い込みは、中々、変えられないということです。

ある講演会の事です。
『お酒を飲み過ぎると健康に害がある』ということを様々なデータをあげて、講師は、
2時間、熱弁をふるいました。

そして最後に1つの実験をして見せたのです。
2つのコップを用意し、1つにはただの水、もう1つにはお酒が入っています。
講師はミミズを1匹取り出して、まず水の入っているコップに入れました。
するとミミズは、何事もなかったように出て来ました。
それをつまんで、今度はお酒の入っているコップに入れました。
するとミミズは、中で動かなくなり死んでしまったのです。
講師は、会衆に向かって念を押すように言いました。

「これで今日の私の話はわかってもらえたと思います。」

すると後ろの方に座っていた一人の男が立ち上がって納得したように叫びました。

「先生の話は難しくて良くわからなかったけど、最後の実験で先生が言おうとして
いることがやっとハッキリわかりました。要するにお酒を飲むとお腹の中の虫が死
んで健康にいいってことですよネ!」


人間は、自分の持っている世界観や価値観の中で物事を判断しようとするもので、
そこから、その人の生き方(人生)が生まれてくるのです。
従って、生き方を変えるには、世界観や価値観を変える必要があるのです。

1.歴史観と生き方

時間のとらえ方や歴史観もその人の生き方に大きな影響を与えます。
たとえば、皆さんにとって「一日の終わり」を実感するのはいつでしょうか?

「あー、今日も終わった!」

と思う時はどんな時ですか?

・一日の仕事を終えてて家路に着く時。
・夕食の後に一服する時。
・お風呂に入って、手足を伸ばす時。
・全てを終えて、蒲団に入る時。


人それぞれでしょう。
いずれにしても、私たちは一日は、朝日と共に始まって夕暮れと共に終わるという
感覚を持っています。しかし、ユダヤ人にとってはそうではありません。
一日の始まりは日没からスタートします。ユダヤ教の安息日の土曜日は金曜日の
日没と共に始まって、土曜日の夕暮れ直前で終わります。

すると、感覚的に一日は暗くなって始まり、明るい内に終わるということになります。
こうした感覚は、何か人生観に影響をあたえそうですネ。

「今は困難で真っ暗な時代だ、でも、やがて朝が来る、光が来る。希望を持とう。」

という意識になり易い気がします。ですから聖書は、

創世記1章5節
「夕があり、朝があった。第一日。」
「夕があり、朝があった。第二日。」


こういう表現を使いますね。もし日本人書いたら、

「朝があって、夜が来た。第一日。」

とこう言うでしょう。でも、ユダヤ人は、

「夕があり、朝があった。第一日。」

ですから、一日をどう理解するかによっても、生き方や人生観に影響があります。

では、歴史ではどうでしょうか?

19世紀、20世紀になって自然科学が目覚ましい勢いで発達した時代ですね。
そして様々な自然現象を見ながら、そこには一定の法則や原理があることを発見しました。
当然です。この世界は、神様が秩序を持ってお創りになったからです。
だから、当然、法則や原則があるはずなんです。
人間がそれをやっと見つけたわけですけれども。

それを見ながら、歴史学者たちも考えたんです。
そして、世の中のすべては何らかの法則に乗って動いているとしたら、
「歴史にも法則がある」と考えた歴史学者たちがいました。
●オズヴァルト・シュペングラー

オズヴァルト・シュペングラーという歴史学者は、こう考えたんですね。
歴史というのは、ぐるぐる回っているんだ。
ある歴史の文化が始まり、やがて完熟期を迎え、そして崩壊していく、これをぐるぐると
繰り返して行くのが歴史だと考えました。

OswaldSpengler.jpg

Never ending Storyです。

●アーノルド・J・トインビー

アーノルド・J・トインビーという人は、別の考え方をしました。線で書くと波線です。
文化の始まりに、スーパーマン的人物が登場して来て、そのリーダー方向づけを発表します。
すると、大衆はそれに従って行き一つの時代を築く、しかし、そのリーダーが亡くなると
終焉を迎える。そして、歴史は次のスーパーマンの登場を待つと考えたのです。

ArnoldJToynbee.jpg

●ゲオルク・ヘーゲル

ゲオルグ・ヘーゲルという人は振り子を考えたんです。「正」「反」「合」という言い方です。
ある所に行くと、それが行き過ぎると、反対に戻そうとする動きが必ず出てくる。
でも、こっちに行きすぎるとまた、反対側に戻ってくる。そうやって、振り子の幅が
どんどん小さくなって、最終的には、真理、本来あるべき姿に歴史は動いていくんだ。
 
このヘーゲルの歴史観を、取り入れたのが、マルクスとかレーニンという人です。
そして、彼らの思想から、共産主義というものが生まれて来たんですね。
彼らは、こう言ったんです。

「資本主義はやがて滅び、社会主義的な共産体制が生まれてくるのが、
歴史の必然である。」


と発表しました。しかし、歴史は皮肉な事に、逆の結果になってしまいました。
かつてのソビエト連邦は崩壊し、ゴルバチョフという人物が登場して、ペレストロイカという
改革をして、何が起こったか?共産主義体制が滅んだんです。そして、多くの国々が分裂して
独立していったんです。

ドイツもそうですね。東西ドイツのベルリンの壁が壊れて、統一しました。お隣の38度線を
囲んでいる国も、どうなるかわかりません。もっと言えば、中国だってどうなるか解からない。

先に挙げた三人の歴史学者たちの歴史観には一つの大きな共通点があります。
それは、三人とも endless 終わりのない歴史を考えていました。
それに対して聖書はどういう歴史観を教えてくれているのでしょうか?

創世記1章1節「初めに、神が天と地を創造した」

「初めに」〝 In the Beginning 〟

つまり、「歴史というものに始まりがあった」という宣言です。

そして

マタイ24章14節:
「この御国の福音は全世界に宣べ伝がえられて、すべての国民にあかしされ、
 それから終わりの日が来ます。」

〝 and end will come 〟

 
「人類の歴史には、終わりがある。」これが、聖書が教える歴史観です。
歴史は一回生のものです。
一回しかありません。人生と同じです。ですから「一生」と言うのです。


その人の持っている歴史観は、必ずその人の生き方に影響を与えます。
ですから、どのようにして歴史が 幕を降ろすのか考えておくべきです。

2.イエス・キリストの再臨

人類の歴史は、イエス・キリストの再臨という出来事によって幕を降ろします。

3節「イエスは苦しみを受けた後、40日の間、彼らに現われて、神の国の事を語り、
数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」


復活後のイエス・キリストは、40日間に渡って弟子たちに色々教えられたのです。

9節「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、
   見えなくなられた。」


具体的にどんな風に、キリストは天に上げられたのでしょうね。
ビデオカメラがあれば良かったですね。
ドキュメンタリー『 キリストの昇天 』なんてのが見られたらいいですね。

弟子たちは、キリストの体が、空中に浮き、徐々に天に登り、雲の中に消えるのを、
びっくりしながら上を見上げ、口をポカンと開けながら見ていたと思います。

「あーっ 行っちゃった!」

10節~12節
「イエスが上がって行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると見よ、
 白い衣を着た人がふたり彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。
『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて
天に上げられたこのイエスは天に上って行かれるのをあなたがたが見たとき同じ有様で、
またおいでになります。』そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。」


御使いたちは「このイエスは…またおいでになります」と言いました。

「このイエス」英語の聖書では、〝 The same Jesus 〟

ですから、再臨のキリストは、2000年前、神が人となって来られたあのイエス・キリスト
ご自身が再び、この世界に戻って来られるのです。その場所は、昇天と同じオリーブ山の上です。
韓国でも、中国でも、アメリカでもない。イスラエルのオリーブ山の上です。

旧約聖書の預言者でゼカリヤ(B.C.502~518)という人がいます。
彼がキリストの再臨について、こう預言しています。

ゼカリヤ書14章4節
「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、
その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、
他の半分は南へ移る。」


イエス様が再臨されて、オリーブ山の上に、その足が着いたら、突然、ものすごい
地殻変動が起こって、裂け目が東西に走って、北と南に大地が分かれるということです。

そんな事が本当に起こるのか?

最近の地質学調査の結果、オリーブ山の真下には平移断層があり、地震などの衝撃に
よって、文字どおり、二つに裂ける可能性は大なのです。


ゼカリヤはたぶん、そのことを知らなかったと思います。ゼカリヤは、神様から言葉を
預ったんです。そして、彼は、語ったんです。神様はもちろん、世界を造られた方です
から、そこに大きな断層があることをご存じだったんでしょうね。

聖書はハッキリと〝The same Jesus〟このイエスが、
オリーブ山の上に再び来られると教えています。


ある人は「話としては面白い。でもバカバカしくて信じられない」といいます。

イエス・キリストの誕生に関して旧約聖書に多くの預言があって、その預言を100%
成就する形で、キリストは、2000年前にこの世界に来られました。

実は、聖書にはキリストの誕生に関する預言よりもキリストの再臨に関する預言の方が
はるかに沢山書かれてあります。

キリストの誕生の預言を信じなかった人がいたように、キリストの再臨を信じられない
人がいたとしても不思議ではありません。しかし、人類の歴史は創造者なる神のプラン
に従って終わりに向かって進んでいるのです。

3.再臨を待ち望む者の生き方

では、キリストの再臨を待ち望んでいる私たちは、どう生きれば良いのでしょうか?

イエスは言われた。

マタイの福音書24章14節:
「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、
終わりの日がきます。」


私たちの福音宣教とキリストの再臨には密接な関係があるのです。
すべての人が「福音を聞いたら」世の終わりが来るのです。
すべての人が「救われたら」ではありません。


すべての教会、すべてのクリスチャンは福音宣教の使命と責任が与えられています。
ところが、ここに一つの問題があるのです。

「では、どの程度伝道したら福音を伝えたことになるのか?」ということです。
トラクトを一枚一枚渡せばいいのか?
テレビやラジオで福音を流せばいいのか?
それとも、一人一人個人伝道をしなければいけないのか?

「どの程度なのか?」それは「主がお決めになる」ことであって、私たちは全ての人を
目指して福音宣教に励めば良いのです。

マタイの福音書10章23節で、イエスは興味深い言葉を残されておられます。

マタイの福音書10章23節
「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、
確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは
決してイスラエルの町々巡り尽くせないからです。」


ここで、イエスは弟子たちを遣わします。神の国の福音はまず「全イスラエル」の人々
が聞くべきでした。ですから、イエスは

「異邦人の町へ行くな、サマリヤの町に下るな、ただイエスの家々に行け。」

と遣わされたのです。

しかし、イエスは同時に

「人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせない」

と言われたのです。

この事からわかることは、私たちが

「全世界にでて行って全ての造られた者に福音を!」

と宣教している最中にキリストは再臨されるのです。


そして、もう一つ宣教とキリストの再臨の関わりについてのみことばに注目しましょう。

マタイの福音書23章38節~39節
「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたまま残される。あなたがたに告げます。
『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言う時まで、
あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」


イエス・キリストの再臨は多くの異邦人だけでなく、多くの神の選びの民である
ユダヤ人たちが待ち望む中で起こることなのです。

従って、キリストの再臨直前にはユダヤ人の間に大リバイバルが起こるのです。

しかし、皆さん、ユダヤ人がクリスチャンになることは、ほとんど不可能の様に思えます。
第二次世界大戦の時に、ヒトラーのナチス・ドイツが、徹底的にユダヤ人を迫害しました。
600万人のユダヤ人が殺されたと言われています。イスラエルにホロコースト記念館と
いう所がある。虐殺記念館です。第二次世界大戦のときに、ヒトラーがユダヤ人にどんな
ことをしたのか。その記念館ですね。本当に悲惨です。

ヒトラーは、本気で、この地球上から、一人残らず、ユダヤ人を消そうとしたんです。

そして、ユダヤ人達は、どう思ったかと言うと、ヒトラーのことをクリスチャンだと
思っているんです。本当は、ヒトラーは、クリスチャンじゃないんですよ。
彼は、オカルトの信奉者です。悪霊に憑かれていたんです。
でも、ヒトラーの将校たちの中には、クリスチャンがいたんです。
ですから、彼らは、日曜日に礼拝に行って、月曜日にユダヤ人を殺す。

だから、迫害されたユダヤ人たちは、

「自分たちは、キリスト教徒にやられたんだ。クリスチャンたちにやられたんだ。」

と思っているわけです。だからユダヤ人たちは、徹底的にクリスチャンを毛嫌い
します。

「例え、死ぬような事があっても、クリスチャンからは、憐みを受けない。」

そう思っているユダヤ人たちは、たくさんいるんです。
だから、十字架を連想させる様なことを、彼らは、全部拒否します。
普通は、救急車には、(十字)マークがついています。
でも、ユダヤの救急車は、(ダビデの星)マークですね。

計算する時に、1足す1とやるけれど、足すは+でしょう。これは十字架を連想させます。
ですから、ユダヤ人は、+を書かないんです。どうするかと言うと、下突き抜けないんです。
⊥(途中でやめるんです)。そのくらい徹底して、キリストの十字架を連想させるものは、
全部排除していくんです。

ですから、彼らがクリスチャンになるということは、本当に奇跡なんです。

ものすごい堅い心を持っています。
でも、不思議なことに、今、ユダヤ人の中に、本当に心を開いて、キリストを信じる人々
が起こされつつあるんです。そして、やがて、民族的に集団回心が起こるんです。
イスラエルの中に。その時に、キリストが戻っていらっしゃると言うんです。

ペンテコステの日の直後、ペテロは神殿に集まって来た人々に同じ事を言いました。

使途の働き3章19節21節
「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、
悔い改めて、神に立ち帰りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、
あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを主が遣わしてくださるためなのです。
このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、
あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」


ここで、ペテロが言わんとしたことはこうです。

「ユダヤ人の指導者たち、イスラエルの民よ、悔い改めて神に立ち戻りなさい。
それは、神がメシアをあなたがたに送ってくださるためなのです。」


イスラエルには、嘆きの壁という所があります。それは、昔神殿のあった壁の一部
なんですね。ここは、ユダヤ人にとって、最も聖なる場所です。そこで、多くの
ユダヤ人が24時間、祈っています。いつ行っても、ユダヤ人達がたくさん祈って
います。何を祈っているか?

「メシアよ、来て下さい! 我らの救い主よ、来て下さい!」

でも、彼らの救い主=メシア、イエス・キリストは、もう来られたんです。
やがて、彼らは、あのナザレのイエスが、我々の望んでいたメシアであることが、
心の目が、霊の目が開かれて、解かる様になるんです。そして、

「主よ、早く来て下さい!」

と彼らは、叫ぶ様になる。その時に主は、その歓声に迎えられる様にして、この
世界に戻っていらっしゃる。

ユダヤ人がイエスをメシアとして信じる時、イエス・キリストは再臨されるのです。
私たちクリスチャンに与えられている責務は、全ての人にイエス・キリストの福音を
一生懸命に宣べ伝える事。特にユダヤ人の救いのために励むことです。

私たちの福音宣教は、キリストの再臨と密接に結びついているのです。
私たちに対する主の期待は大きいのです。


だから、私たちの教会も、全ての人々に宣教するために、渋沢宣教師をニュージーランド
やバヌアツへ遣わしたんです。高山宣教師をロシア、アラスカ、シベリアへ送っています。
他にも多くの宣教師のサポートをしています。これが、1つのフォーカスです。

もう一つのフォーカス(中心)があります。それは、ユダヤ人の救いのために、私たちの
教会は存在するということです。この講壇に日の丸とイスラエルの旗を立てて、イスラエルの
ために祈り、石本良枝さんをイスラエルへボランティアとして送っています。ユダヤ人の
困窮者を助けるBFP(ブリッジス・フォー・ピース)で働いています。去年はH・S君を
大工仕事のために送った。屋根や壁の修繕を無料でして喜ばれていた。イスラエルのために
祈るハイナイトの会にも出てください。神様はアブラハムに言われた。

「私はあなたを祝福する者を祝福する」

私たちがユダヤ人を愛し、祝福する時私達も神の祝福して下さるのです。
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以上、要約でした。

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