2013年2月3日の礼拝メッセージ~「主の囚人であることを恥じてはならない」~どんな状況にあっても変わらないパウロの確信

2013年2月3日、峰町キリスト教会安食弘幸牧師による礼拝メッセージの要約です。

【参照する聖書の箇所】
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テモテへの手紙第二1章11節~12節
11:私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。
12:そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥
  とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知ってお
  り、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださるこ
  とができると確信しているからです。

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【礼拝メッセージ要約】
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ある家庭の夕食の団らんの時に、小学校一年生の坊やが、ちょっと得意そうにね、

坊や:「あのね、今日ね、学校でね、先生がね、クラスのみんなに質問したんだよ!
    でもね、手を挙げて答えられたのは、僕だけだったよ!」


とこう言ったんですね。すると、お母さんが少し嬉しそうにね、

お母さん:「わあ、スゴイじゃない!で、先生どんな質問したの?」

坊や:「あのね、『この教室のガラス割ったの誰ですか!?』って聴いたんだ。」

これは、犯人しか答えられない質問です。(笑)

私たちが、やがて、この地上の生涯を終えて、神様の御前に出る時があります。
そこで、一つの質問をされると思います。でも、その質問は、あなたしか答えることの
出来ない質問です。神様がこうおっしゃったら、皆さんは、何と答えますか?

神様「私は、あなたに、人生と命を与えましたね。あなたは、それを十分に楽しんで
   くれましたか?感謝して、生きてきましたか?あなたは、私が与えた人生を、
   本当に充分に生きてくれましたか?そして、私があなたに期待したこと、その
   期待に応えてくれましたか?」


どうでしょうか?このテモテへの手紙を書いたパウロは、自分の人生がもうすぐ終わる
ということを知っていました。そして、パウロは、もう既に神様の質問に対する答えを
用意していたんです。この手紙の一番最後の所を見ると、4章のところですが、パウロ
は、こんな風に書いている所がありますね。

テモテへの手紙4章6節~8節
「私は今や注ぎの供え物になります。私が世を去る時はすでに来ました。
 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」


つまり、パウロは、

「神様、私は、走るべき道のりを力いっぱい、走りましたよ。あなたの期待に応え
ましたよ。もう、あなたの方で、義の栄冠が用意されているでしょう?」


こんな風に答えることができたんですね。そこには、パウロの満足感、あるいは、充足
感、もう十分に生きたんだ。という、こういう気持ちが伝わってきますね。
何故、パウロは、そんな風に言えたのか?実は、その理由が、今読んで頂いた短い箇所
に書かれています。その理由が。

1.神に任命された責任

先ず、一番目は、パウロは、神に任命されたという責任を良く知っていたということです。
8節の所で、こう言っていましたね。

8節「私が主の囚人であることを恥じてはいけません。」

この言葉から、パウロが、信仰上の理由で捕えられて、牢獄の中にいる事が分かります。
パウロのことが書いてある最初の書物は、使徒の働きなんですが、そこで、彼が捕えられ
てローマに囚人として送られます。囚人と言っても、最初の1、2年は、かなり自由が
あったようです。監視は付きましたけれど、人々に福音を語ることは出来た。しかし、
その後、また捕えられて、獄中に入れられます。しかし、パウロの宣教の思いを止める
事は出来ませんでした。

彼は、獄中の中で手紙を書き送っています。その時に書いた手紙が、

「エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙」

この4つを、パウロの獄中書簡という風に呼びます。
その後、パウロは、また少し自由が与えられて、外で伝道することが許された様です。
その期間に、

「第一テモテへの手紙、テトスへの手紙」

を彼は、書いています。ところが、パウロは、また、三度、逮捕されて、牢獄の中に
いるわけです。そして、この手紙を書いています。この手紙を書き終わって、1年以内
にパウロは、殺されています。殉教しています。この時のローマ皇帝は、ネロという人
です。悪名高いネロが、ローマ皇帝の時ですね。

実は、ネロは、ローマの街を新しくしようという野心を持っていたんです。
この種々雑多な、汚いローマの街をですね、なんとか、きれいな街に造り直したい。
そこで、ネロが考えた作戦は、ローマの街に火をつけるということでした。
有名なローマの大火、ローマの大火事です。ところが、焼け出された人々は、その原因
をネロが犯人ではないかと疑い始めたんですね。

それで、ローマ皇帝ネロは、その責任をクリスチャンに押し付けたんです。

ネロ:「この火は、あのクリスチャンが点けたんだ!」

そう言って、ローマの人々の憎しみをクリスチャンに向けさせることに成功したんですね。
また、パウロの伝導によって、ネロの近くにいた女性たちが数人、イエス・キリストに導
かれている記録も有ります。ネロは、非常に嫉妬深い人間でしたので、自分のそばにいる
女性が、自分よりも、もっと愛する人が出来た。イエス・キリストのことですが。
それは、ネロにとっては、まさに許せないことだったんですね。

何故、そんなことが起こったのか?

「それは、あのパウロというキリスト教の伝道者が彼女たちをキリストに導いたからです。」

こういうことが、重なってですね、ネロは、とうとう怒りに燃えて、パウロを捕えさせ、
そして、牢獄に投げ込み、そして、彼はすぐに殺されていく。こういう背景の中にあるわけ
ですね。しかし、牢獄の中にあっても、パウロは、こう言っています。

11節:「私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。」
12節:「そのために、私はこのような苦しみにも合っています。しかし、私はそれを恥
     とは思っていません。」


ここで、パウロは、

「私は、福音のために宣教者として召されたんだ。これが、私の使命なんだ。責任なんだ。」

という自覚を持っています。パウロは、どの様にして、クリスチャンになったかと言います
と、元々はユダヤ教徒で、クリスチャンを迫害する側にいたんです。クリスチャンを見つけ
ては、牢獄に投げ込み、エルサレムだけでは、飽き足らず、彼は、外国まで出かけて行きま
した。隣の国、隣の町のダマスコ(現ダマスカス)まで、行こうとしたんです。その途中で、
彼は、復活のキリストに出会って、打倒されるんですね。

そして、彼は、その経験を通して、自分が迫害しているイエス・キリストこそ、本当に神な
んだ。ということに目が覚めるんです。目からウロコが落ちるんです。そして、キリストか
ら直接、

イエス・キリスト:「お前は、私を宣べ伝える使徒とになりなさい。」

という召命を受けます。パウロは、その事を、神からの確信として、私は、宣教者として、
召されたんだ。この宣教者という言葉は、「告知する者」という意味があるんですね。
実はローマ帝国の時代には、「告知をする者」という仕事があったんです。
それは、例えば、ローマ皇帝が勅令を出します。ローマの市民に向かってね。

で、どうやって、それを浸透させるかというと、今の様にTV放送があるわけではありませ
ん、インターネットがあるわけではありません。だから、使者をローマ帝国の隅々まで、
自分の使いの者を送るんです。自分のメッセージを携えてね。それが、この宣告をする者、
ここでは、宣教者と訳されている言葉なんです。

ですから、その宣教者を迎える人々は、ローマ皇帝のメッセージを携えてきますから、
まさに、ローマ皇帝の権威を携えてくるわけですから、もう、街を挙げて彼を迎えたわけ
です。で、その宣教者はですね、街の人々を集めて、ローマ皇帝からのメッセージを読み
聴かせる。そういう仕事があったわけです。

パウロは、ここで、

「私は、ローマ皇帝よりも、もっと偉大な方の告知者なのだ。私は、その方のメッセージを
携えて世界に出て行くように召された者である。私は、王の王なるお方の仕事をしている。
そのために、この様な牢獄に投げ込まれることがあっても、恥ではない。むしろ、それは、
誇りとすべきことなんだ。」


パウロは、自分は、神の使命に、与えられた責任にしっかりと、生きているという自覚が
あったんです。だから、いつ神の前に立っても大丈夫。

今、アメリカで、文化上の闘いというのがあります。それは、いわゆる保守派と呼ばれる
人と、改革派、または、リベラル派、世俗派と言ってもいいでしょうね。そういう2つの
グループが文化的な闘いをしています。

保守派と呼ばれる人たちは、どういう人かと言うと、ほとんどは、クリスチャンたちで、
聖書の価値観、道徳観を守ろうというグループです。それに対して、世俗派(リベラル派)
と呼ばれる人々は、

「聖書の教える価値観は、今の時代に合わない。だから、我々は、新しい道徳観を作るべきだ。」

と主張する人たちですね。で、世俗派と呼ばれる人たちがどういう主張をしているかと言
うと、例えば、

・同性愛者の結婚を法律的に認めよう。
・妊娠中絶を容認しよう、支持していこう。
・死刑を廃止しよう。
・聖書の御言葉とか、特定の宗教とわかるシンボルを街中に立てるのを止めよう。
・教会の十字架や聖書の御言葉は禁止しよう。
・クリスマスの時期に、「メリー・クリスマス!」と言うのを止めよう。


まあ、こう言う主張を彼らは言うわけです。いわゆる世俗派という人たちはですね。

では、アメリカにおいて、世俗派と保守派の人数的な割合は、3対7、いわゆる保守派の
方が多いんです。ところが、マスコミを通して流れるメッセージは、むしろ世俗派の方
が有利なんです。何で、そういうことが起こっているかというと、その分析をした人は、
それは、保守派、特にクリスチャン達が、そういう聖書的ではない価値観とか、発表に
対して、

「それは、違う!」

という声を出していないから、そういう声がどんどん広がっているんだ。こういう風に
クリスチャンは、もっと声を挙げるべきだ。とこういう風に指摘していますね。

去年、アメリカの大統領選がありましたけれども、オバマ大統領が再選されました。
オバマ大統領は、民主党ですね。彼が属しているのは。で、オバマ大統領は、中絶を、
容認する側にいるわけです。その民主党の党大会の時に、一人の女性が応援演説をした
んです。キャロラインという人です。彼女のお父さんは、元アメリカの大統領です。

ケネディです。暗殺されたジョン・F・ケネディの娘さんです。その応援演説の中で、
彼女は、こう言ったんですね。

「私は、カソリックの信徒です。」

つまり、自分がクリスチャンであることを表明したんです。同時に、彼女は、

「私は、中絶を支持する立場にある。」

と発表したんです。皆さん、ご存知のように、カソリック教会は、中絶に反対してます。
容認してません、反対です。断固反対しています。とすれば、たくさんの人が聞いている
公の立場で、

「私は、カソリックの信徒です。でも、私は、中絶を容認します。」

と、影響力のある人がそんなことを言ったら、当然、カソリック教会は、彼女に対して
何かを言うべきなんです。

「あなたのコメントは、間違っています。」

しかし、公にカソリック教会から、彼女のコメントに対し、何かの注意があったとは、
聞いていません。そういうものは無かったんですね。クリスチャンは黙ってしまったん
です。政治的圧力があったのかは、知りませんけれど。でも、この様なことが、繰り返し
繰り返しされることによって、世俗的な、聖書的ではない価値観というものが、どん
どんアメリカ社会の中に広がっていく危険性がある。これは、アメリカだけでは無く、
日本でも、世界でも、どこでも同じかもしれませんね。

もしパウロが、この時代に生きていたら、声を大にして叫んだのではないでしょうか?

「私は、神のメッセージの告知者である。これが私の使命であり、責任である。
それを全うしなければ、私たちは、神の前に立つことが出来ないんだ。」


そう言ったと思いますね。
パウロは、まさに、神からのメッセージの告知者であるという自覚を持って生きていた。

2.神を知っていることの喜び

さあ、そして、2つ目です。パウロが、なぜ確信を持ったか。それは、神様を知って
いることの喜びにあふれたからです。

パウロの体は、獄中にありました。鎖につながれていました。でも、パウロの心は自由
でした。喜びに満ち溢れていたんです。12節を見ますと、

12節「というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており」

と書いてあります。パウロがこの手紙を書いているのは、晩年です。彼がクリスチャン
になったのは、約30年ちょっと前です。彼は、もう30数年間のイエス・キリストとの
お付き合いがあるわけですね。

「だから、私は、そのお方を良く知っているんだ。だから、この状況にあっても、私は
満足して、喜んでいられる。」


信仰が弱い時はですね、どういうことが起きるかというと、私たちの周りで起こる状況に
よってね、神様の愛を判断するんです。例えば、何か、いいことがあると、

「ラッキー!あ、神様の祝福だ!神様、私を愛して下さっている!(^^)/」

という感じですね。でも、試練がやってくると、

「あ、もう神様、私を愛してくれてないかもしれない。。。」

という風に、起こる出来事で、神様の愛を判断してしまうんです。
でも、成熟するとそうじゃない。

「どんな状況の中に在っても、神様が私を愛して下さることは変わらない!」

これがパウロの確信だったんです。

「私は、良く知っているんだ。もう30年以上、お付き合いしてるから、私は、
自分が信じてきたお方を良く知っているんだ。私に対する愛は揺るぎないんだ。」


パウロが、ローマ人への手紙8章で、こんなことを言っています。

ローマ人への手紙8章35節~39節
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか。苦しみですか、
迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」


みんなこれは、神様から、私たちを引き離す要素を秘めていますね。
でも、そういうものですか?もちろん、パウロは、一つ一つに

「NO!NO!NO!」

と答えているわけですね。そして、パウロはこう言います。

『あなたのために私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊
とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし私たちは私たちを愛してくださ
った方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、
後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たち
の主キリスト・イエスにある神の愛から私たちをを引き離すことはできません。」


パウロの心は、もうイエス・キリストへの愛で溢れていたんです。だから、愛する
イエス・キリストの故に受ける迫害や困難は、パウロにとっては、苦しみではなく
喜びだったんです。愛というのは、喜んで犠牲を払うものです。いや、それは、犠牲
とも呼びません。お父さんやお母さんは、愛する子供のために、喜んで自分を犠牲に
することができますよね。恋愛中のカップルもそうでしょう。もう、相手のことを
思うと、何でもしてあげたい。

これは、ある大学のキャンパスで起こった愛の物語です。
一人の男子学生が、美しい女子学生に恋をしたんです。でも、彼はお世辞にも、ハン
サムで恰好いいと言うわけではありません。でも、心は、とても誠実で優しい人です。
彼は、憧れの女学生に色んな小さな親切を示したんです。例えば、教室で一緒に隣に
座る時は、椅子を引いてあげたり、彼女が重い荷物を持っていたら、「僕が持ってあ
げるよ。」と言ったりね。

時々、彼女の机の上にお菓子を置いたり、一所懸命自分の愛を伝えようとしたんです。
もし、彼がとてもカッコいい男だったら、彼女はどうすると思いますか?

「主よ。あなたの祈りの答えを感謝します!御心の人と出会わせてくれて感謝します!」

というかも知れない。でも、彼女にとって、彼は単なる友人の1人だった。だから、
好意は、受けとりますが、それ以上のものはありませんでした。ところが、ある雨の
降る寒い日、たまたま二人が、大学の6階の図書室にいた。二人で本を読んでいたら、
彼女がスーッと立って、ロビーに出て自販機でコーヒーを買おうとしたら、たまたま
それが壊れていた。自販機は1階と6階にしかないので、彼女は1階に行くほどの事も
ないと思い、元の場所に座ったんです。

それから数分後、かの男性が、両手に紙コップのコーヒーを持ち、ハアハア言いながら
彼女の元にやって来た。あまりにも急いだので、半分くらいこぼれていたんです。
でも、彼は、彼女にその2つのコップを差し出して、こう言ったんです。

「これをこっちのコップに入れれば、ちゃんと1杯分になるから、どうぞ飲んでください。」

ねえ、どうですか?
この事が彼女の心を捕えたかどうか知らないが、二人は結婚しました。
美しい物語ですね。たぶん、来週から、教会の中をコーヒーを持って走る男性が増える
ことを願っていますが。独身の女性の皆様、男性は外見ではありません。あなたのために
コーヒーをもって走ってくる様な人と結婚してくさい。そうすれば、必ず幸せになれます。
愛は決して犠牲を厭いません。むしろ、それを喜びとするのです。

パウロもそうでした。イエス・キリストへの愛で溢れていた。イエス様の愛も受けていた。
そして、イエス様を愛していた。牢獄にいても、パウロにとっては喜びだったんです。
神様は、なぜ私たちの人生にしばしば、試練というものが起きる事を赦されるでしょうか?
それ無しに通過することも、神様はできるはずなのに、試練に出会うことを赦されるのか?

それは、試練を通してしか、私たちは、成長出来ないからです。

親は、愛する子供が、成長して欲しいと願います。いつまでも、子供だと困るんです。
でも、成長するということは、いろんな訓練や試練を通過しないと出来ないことなんです。
それは、スポーツでも音楽でもそうです。厳しい練習、訓練が無ければ、上達することは
ありません。私たちが、人間として成長するのも同じなんです。

試練というものが無ければ、成長出来ないんです。

パウロは、同じくローマ人への手紙でこう言っています。

ローマ人への手紙5章3節~5節
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからです。」


パウロも、この試練というものが、自分を成長させることを知っていました。
では、どうすれば、成長したことを知る事ができるでしょうか。どうやったら、自分が
成長したかわかるのでしょうか?それを計る機械があるんでしょうか?機械はありません
が、すぐに成長したかどうかが解かります。

それは、試練を通過した後に、通過する前と比べて、自分のイエス様に対する愛情が増え
ているかどうか。増えていれば成長している。間違いなく成長しています。

興味深いお話が、C.S.ルイスのナルニア国物語の中に出てきます。



ナルニア国物語が、映画にもなりましたが、その作品の中にルーシーという少女が出てき
ます。久しぶりにルーシーが、国に帰ってきた。そこにアスランというライオンがいる。
これはイエス様を象徴しているんです。ルーシーは

「アスラン、しばらく会わなかった間に随分大きくなったんじゃない?」

アスランは、

「ルーシー、それはあなたが成長した証拠だよ。成長すると私の事が大きく見えてくるんだよ。」

という。まさに、私たちにも当てはまる心理です。私たちが試練に出会って、そこから
出てきた時に成長していれば、イエス様に対する愛が大きくなっているからです。
パウロは、もう、心の中にイエス様に対する愛が溢れていたんです。だから、喜びに満ち
溢れていたんです。だからもう、いつでも、主の前に立っても大丈夫。そういう確信を
持って、生きていたんですね。

3.神の約束に対する確信

3つ目のパウロの姿は、それは、神の約束に対する確信というものです。12節後半で、

12節「また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださるこ
  とができると確信しているからです。」


かの日とは、最期の審判の時です。私たちが地上の人生を終えて、神の前に立つ時です。
その時に、神様は、私がお任せした物を守って下さる。という確信です。これは何か?
1つは自分の魂を守って下さる。殉教があっても何があっても、神様は私を御許に導いて
下さる。その日に守って下さる。

もう一つのパウロの確信は、自分が多くの人々にイエス・キリストを伝えた訳ですが、
そういう人たちも、一緒に神の前に立つのだ。そういう人たちも神様は守って下さるんだ。
という確信があった。ですから、パウロが主の前に立った時、もう既に天国へ帰った人
もいたと思いますね。これから、パウロの元に帰っていく人もたくさんいたと思います。
そして、多くの人々がイエス様にこう言ったと思います。

「主よ。聞いて下さい。私たちが今日ここにいるのは、このパウロ先生が私たちに
福音を語ってくれたからです。」


パウロは、たくさんの人々と共に主の前に立つことができるんだ。
だから、私には義の栄冠が待っているだけです。とパウロは確信を持って言うことが
できたんですね。自分の人生を私は、十二分に使ったんだ。

これは、ある人が見た夢です。夢の中で死んだんです。死んだら、天国に引き上げら
れたんです。すると、御使いが、天国に待っていて

「よくいらっしゃいました。」

と迎えてくれ、一つの部屋に案内してくれた。部屋に入っていくと、イエス様が待って
いらして、歓迎してくれたんです。そこは、ちょっと見ると映画館の様な部屋だったん
です。前に大きなスクリーンがあってね、こっちに座席があるわけです。でイエス様が

「今から一つの映画をやるから一緒に見ようよ。」

とおっしゃったそうです。座席に座ってちょうだい。ってね。そして、やがて映画が
始まります。そのタイトルは、

「本当はこうなるはずだった。」

という映画です。主人公は自分なんです。映画の自分は、本当にクリスチャンとして
いつも喜びに満ち溢れている。いつも祈り、感謝している。いつも教会に行き、人に
親切で、人を愛していて、寛容で忍耐深い。自然な形でイエス様を人に紹介したり、
教会に誘たり、彼を通して何百人という人がイエス様を信じていくんです。
そこでその人の人生が終わるんですね。主人公は自分だけど、自分が地上で歩んで来
た人生と全く違う人生がそこにあるんです。で、終わって、タイトル、

「本当はこうなるはずだった。」

って書いてあるんです。そして、映画の後、イエス様が

「あなたが、地上でもう少し、私に信頼してくれたら、もう少し忍耐があったら、
もう少し試練に耐え忍んだら、もう少し祈っていたら、そして、もう少しの勇気を
もって、周りの人にイエス・キリストを伝えていたら、あなたの人生はこうなるはず
だった。」


その時に、彼は目が覚めた。

もし、そんな映画があれば、皆さんはどんな映画になるでしょうか。地上の人生と
本当はこうなるはずだったという人生に大きなギャップがあったら悲しいですね。
もし、パウロのための映画があったら、たぶんパウロは、

「ああ、これは私の地上の人生ですね。そのままですよ。」

と言える様な歩みをしていたんでしょうね。

もし、皆さんの今まで人生が、本当はこうなるはずだったと、えらいギャップが
あったとしても、まだ大丈夫です。前半がダメだとしても、まだ後半が残っていますから。
どうか、残りの人生に逆転サヨナラホームランを打てるように、本当はこうなるはずだった。
やがて、天国で上映されるそういう映画に近い人生を私たちは歩んでいけたらと思っています。

パウロは、今、自分の人生の最後の一コマにいました。次のコマは天国です。
本当に最後の瞬間ですね。でも、彼は、自分の人生を振り返ってね、

「私は十分満足です。あなたに与えられた人生を十分に生きました。あなたが与えてくださった
使命を十分果たしましたよ。今からは、義の栄冠だけが待っているだけです。」


と言いました。私たちも人生の最後の一コマに立った時に、そんな風に自分の人生を振り返れ
たら、なんと幸いでしょうか。どうか、このパウロの心を私たちの心にしながら今週も歩んで
いきたいと思います。
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以上、要約でした。

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