2014年1月12日の礼拝メッセージ~『神の摂理の御手』~苦難や試練が本当の益に変わるには?

2014年1月12日、峰町キリスト教会、安食弘幸牧師による礼拝メッセージの要約です。

【参照する聖書の箇所】
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ローマ人への手紙8章28節~30節
28:神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて
  のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
29:なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿に定められ
  たからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
30:神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認められ
  た人々にはさらに栄光をお与えになりました。

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【礼拝メッセージ要約】
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今日は、ローマ人への手紙8章の中でも、特別に有名な箇所から、分かち合ってみたいと思います。

あるお母さんが、自分の息子の運動会に行ったそうです。
すると、息子が、仲間と一緒に入場行進をして来ました。

1、2、1、2、右、左、右、左と、手足を合わせながら歩いて来たんです。

ところが、良く見ると、自分の子どもだけが、右左逆なんですね。
それで、お母さん、思わず叫んだんです。

「皆さん、見てください!家の息子以外は、みんな間違ってますよ~!」

まあ、このくらい自己中心のお母さんも珍しいと思いますが、でも考えてみますと、
私たちは、多かれ少なかれ、自己チュー、自己中心な者です。

「ね?」「違うとは、言わせませんよ。」

例えば、皆さんが、誰かから写真をもらったとします。

「これ、先日、出かけた時の集合写真よ。」

さあ、集合写真をもらったら、誰を、一番最初に探しますか?

自分ですね~。(笑)

しかも、その写真が、いい写真か悪い写真かを判断する基準は、

自分の写りです。(笑)

ねえ。隣の人が目をつむっていようが、横を向いていようが、自分の顔が、思った以上に
撮れている場合は、

「わあ、いい写真ですね~。」

と言います。でも、自分が目を閉じていたり、横を向いていたりすると、「ありがとう」
と言いながら、

「う~ん、今一つの写真だな・・・。」

そう思うわけです。
私たちが、自己中心性から、だんだん解放されて、神様中心、あるいは、人の事を思いやる
ことができる。それが、私たちの成長のバロメーターと言ってもいいでしょうね。

どれだけ、自己中心性から、解放されているか?
それが、私たちの成長の印と言ってもいいと思います。


今日のメッセージのタイトルは、『神の摂理の御手』とつけました。

「摂理」という言葉は、あまり、聞きなれない言葉ですよね。聖書にも出てきません。
これは、聖書の真理を説明する一つの専門用語、神学用語と言ってもいいですね。

「摂理」というのは、

「神様が人の中に働いて、神様の永遠の目的を達成されていく、そのプロセス」

を含んでいる、意味するわけですよね。
神様の御計画とその中で働く神様の御手の働きことを「摂理」と言いますけれども。
今日は、私たちの人生は、神様の摂理の御手が導いているという事にご一緒に心を向けたい
と思います。

1.すべてを益と変える神の摂理

先ず、28節の言葉、もう一度見て頂きたいと思います。有名な言葉ですね。
多くのクリスチャンたちが、

「この言葉は、私の愛唱聖句の一つ。」

みたいなことおっしゃいますが。

28節「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が
  すべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。


と言う言葉です。ある方は、暗唱なさっていますけれども。
ここで、パウロが、「私たちは知っています。」という表現を使った事でも解かる様に、
この言葉は、どうやら、初代教会のクリスチャンたちが、日常的に信仰告白として、用いて
いたあるフレーズではないかと思われます。

もう、こういう内容の言葉が、共通の認識として有ったわけですね。

だから、パウロは、

「私たちは、知っているでしょう?ほら。」

という形で、ここで紹介しているんですね。

この「知っている」という言葉は、「体験として知っている」という言葉なんですね。

「その言葉は、聞いたことあるよ。」

とか、

「そのことは、知識として知っているよ。」

というだけではなくて、パウロは、

「このことを、お互い、体験として知っていますよね。」

という言い方をしているわけですよね。

「すべてのことを働かせる」というこの動詞は、現在形が使われています。
つまり、神様の御手が働くということは、今もずーっと続いている。
過去も今もこれからも。

過去のある一点で、そういうことがあったというだけでなく、

「今日も、神の御手が、私たちを導いて、全ての事を働かせて下さっているんだ。」

という意味です。

そして、次の言葉ですが、「益としてくださる」これがね、結構、クリスチャンの中でも、
誤解されている内容なんです。

「益としてくださる」というのは、どういうことなんでしょうか?

あの、以前、あるクリスチャンの青年が手紙を書いたんです。
手紙を書くときに、聖書の御言葉でも、添えた方がいいかなと思ったんでしょうね。
それで、この28章の言葉を書いたんです。
ただ、彼の場合は、漢字力が、ちょっと間違っていた。

「益」というのを、ステーションの「駅」と書いたんです。(笑)

「全てが駅に変えられる。」


思わず、

「そんなに駅作ってどうするんだ?」

とツッコミを入れたくなってしまいましたけれども。(笑)


もちろん、この「益」という言葉は、「プラスになる」っていうことですね。
この、「プラスになる」っていう言葉は、日本の諺に

「雨降って、地固まる。」

という諺がありますけれども、まあ、

「いろいろ、ゴチャゴチャした事は、あったけれども、結局、丸く収まって良かったね。
益に変えられたね。」


ていう言い方をしますけれども、そういう意味とは、ちょっと違うんですね。
この「益と変えられる」ということは、

「全ての事が、私たちの成長のために使われたのならば、その出来事が益と変えられた。」

という意味です。
その出来事の中で、私たちが全然成長しなかったら、

「それは、全然、益では無かったね。」

ということです。

この出来事の具体的な例として、旧約聖書のヨセフという人の人生を見ることが出来ます。

ヨセフには、お兄さんが10人いました。彼は、末っ子です。
で、特別にお父さんに愛されたんです。着る者から、お兄さんたちと違うわけですよね。
当然、お兄さんたちは、面白くないわけです。で、お兄さんたちの妬みを買います。

ある時、お兄さんたちが、相談してですね、ヨセフを売り飛ばすんです。
そして、彼は、エジプトの奴隷となっていきます。
また、そこでも、誤解をされたり、牢獄に投げ込まれたりして、
もう、様々な試練と苦難を彼は、経験するわけです。

ところが、神の御手は、彼から離れることは、ありませんでした。
やがて、ヨセフは、エジプトの王様パロの目に留まります。
そして、彼は、エジプトの社会の中で、どんどん出世していくんです。
とうとう彼は、パロの次ぎの位に着きます。まあ、総理大臣ですね。

ちょうど、その頃、中近東一帯に、大きな飢饉が起こります。
食べ物が無くなるんです。
エジプトでは、ヨセフの政策によって、穀物倉に、一杯穀物が有り余っているんです。
そこで、他の国から、エジプトに食糧を買いに来るんです。
お兄さんたちが住んでいる地域にも飢饉が襲ったんです。

「エジプトには、食べ物が余っているそうだ。買いに行こう!

そう言って、ヨセフが総理大臣になっているとは知らずに、お兄さんたちがエジプトに
やって来るんですね。ヨセフは、直ぐにお兄さんだと解かります。

普通は、どうします?
復讐のチャンスですね。


やがて、お兄さんたちも、ヨセフがエジプトの総理大臣になっていることを知るんです。
お兄さんたちは、恐れるんです。復讐されるんじゃないかと思って。
でも、その時に、ヨセフは、こう言うんですね。

創世記50章20節
「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良い事のために計らいとなさい
ました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」


とこう言って、ヨセフは、お兄さんたちを赦すわけですいよね。

この出来事の中で、何が益に変えられたか?ということです。

お兄さんたちが、ですね、

「おい、良かったなあ。ヨセフをエジプトに飛ばしておいて。こういう時のために、
あいつを売ったんだ。全てが益に変えられて、良かった、良かった。」


こういうことでは無いわけですよね。そういう益ではないんです。
これは、ヨセフにとって、益になったということです。
彼がエジプトに飛ばされた事、そこで苦労したこと、誤解をされたこと、獄中生活を
したこと。そういうことが、全て、彼の成長のための糧となって、お兄さんたちを
赦せる様な人間に成長していった。

だから、彼にとって、全ての苦労が益になった。

ということですよね。ですから、いろんな試練や苦難が、私たちの成長の糧となる
ならば、それらの試練や苦難は、その人にとって益となるということですね。


この様に見ますと、神様は、試練や苦難も、ご自分の御手の中に握って、私たちの
成長のために用いてくださるということです。

◆ヘルマン・ヘッセの言葉(ドイツの作家)

ドイツの詩人で、ヘルマン・ヘッセという人がいます。



彼の代表的な小説は、「車輪の下」というものがありますけれども、彼の言葉の中に

「神様は、私たちに絶望を送るのは、それは私たちを殺すためではなく、私たちの中に
新しい命を呼び覚ますためである。」


まさに、これは、聖書のメッセージですね。
なぜ、神様は、私たちの人生に試練が起こることを赦されるのか?
それは、私たちを潰すためではない。私たちの中から、さらに良きものを引き出すため
である。

◎河野 進(日本の牧師)

日本の牧師で、河野進さんという方がいっらっしゃいますが、この方は、ハンセン病
の人々の中で働いた方なんですね。
ハンセン病とおうのは、ひどい病気なんですが、すばらしいクリスチャンがたくさん
生まれたんです。そういうクリスチャンの姿を見て、河野さんこんな詩をお作りにな
ったんですね。

「病まなければ、捧げ得ない祈りがある。
 病まなければ、信じ得ない奇蹟がある。
 病まなければ、聞き得ない御言葉がある。
 病まなければ、近づき得ない聖所がある。
 病まなければ、仰ぎ得ない聖顔(みかお)がある。」


病気になったからこそ、解かった神の恵みがあるんだ。

「おお、病まなければ、私は人間でさえも有りえない。」

と結んでいるんですね。
病気になることは、誰にとってもうれしくない事です。
しかし、神様に目を向けるのなら、それらの試練がその人を成長させるのならば、

それは、益に変えられたということです。


ですから、苦難の中に置かれて、神様のそういう摂理の御手を見ないで、神様に文句
を言う人、

「神様、何でこんなことになったんですか?」
「私を見捨てたんですか?」
「もう、愛されていないんですか?」
「もう、信じるのを辞めます・・・」

こういう態度をとってしまうと、全ての事が、益に変わらない。
苦難は苦難で終わってしまう。悲しみは悲しみで終わってしまう。
苦しみは、苦しみで終わってしまうということですね。


ですから、パウロは、28節の最初の所に、益に変えられる人の条件を述べています。
それは、

28節「神を愛する人々」

と付け加えているんです。神様を愛するという状態を取り続けるならば、全ての苦難や
試練が、その人にとって、益と変えられるということですね。

★登坂裕子さんの証

登坂裕子さんという一人のご婦人の方が、いらっしゃいます。彼女の人生に起こった事
ですが、息子さんがいらっしゃいます。でも、息子さんは、小学校に入るとすぐに学校
に行けなくなってしまいます。そして、小学校6年間行けません。

中学校に進みましたが、中学校も3年間行けませんでした。
義務教育の間、ほとんど、学校に行けなかったんですね。

「何とか、息子を学校に遣りたい。」

いろんな人に相談し、いろんな宗教にも助けを求めた。その中に彼女のお友達の中に
クリスチャンがいらっしゃって、一緒に誘われて教会に来るようになったんです。
そして、聖書の一つの御言葉に出会ったんです。それは、

「すべてのことに時がある。」

伝道者の書3章1節
「天の下では、何事も定まった時期があり、すべての営みには時がある。」


神様の行われることは、すべての事に時があるんだ。
という御言葉に支えられて、

「そうだ。時が来れば、いつか、息子も学校に行けるかもしれない。」

そこに一縷の望みを見出したわけですね。
教会に通い始めて、2年後に洗礼を受けられました。
でも、登坂さんにとっては、自分の罪というものが、もう一つ実感出来なかった。

イエス・キリストが自分の罪のために死んでくださったんだ。

それは、理屈では解かる。でも、自分の罪が赦されるということが、解からなかった
んですね。

登坂さんにとって、罪の赦しというのは、本当に息子がもう一度、学校に戻れる様に
なった時に、その息子が学校に行けなくなったのは、自分のせいだと思っているわけ
ですよね。

だから、そういう自分の育て方が悪かったのが赦されるのは、息子が学校に戻った
時に、初めて、私は、罪の赦しを実感できると思っていたのです。

ところが、聖書を読んで行くと、聖書の中にいろんな人物が登場してきて、その人
たちの罪が書いてあるんですが、読んで行くうちにですね、

「ああ、私の中にも同じ様な罪がある。私も同じ様な事をしている。」

今度は、逆に自分の罪の重さに耐えきれなくなってしまったんです。

「神様どうしたらいいんですか?」

ある朝、泣きながら祈っている時に、神様が一つの場面を見せて下さったそうです。
それは、自分の今まで歩んできた人生の道のりが示されたんですね。
曲がりくねった満ちを自分が、ずーっと歩んできた。
そこで、たくさんの罪がね、

「あそこでも失敗した、ここでも過ちを犯した・・・。」

ところが、良く見ると、その一つ一つの場面に、十字架が立っているんです。

「ああ、私は罪を犯してきたけれども、いつも、十字架がそこに立てられて、神様は
そうやって、一つひとつ赦して下さっているんだ。」


そのことが、はっきりと分かったそうです。
そして、罪が解かるに従って、息子さんに対する対応も変わってきたんだそうです。
ある時、息子さんと初めて、心と心を向き合って、話す事が出来たそうです。
そこで、登坂さんは、息子さんに心から謝ったそうです。

「今までママは、あなたを本当に自分の思い通りにしようとして、何とか学校に行かせ
ようとして、いつもプレッシャーをかけて来た。そのことを本当に赦して欲しい。
心から、ごめんなさい。もう、あなたが学校に行けないのなら、それでもいい。
でも、このことは、解かって欲しい。お父さんもお母さんも、あなたを心から愛して
いるから、何か助けて欲しい事があったら言って欲しい。どんな手伝いもするから。
あなたのためだったら、愛しているから。」


そう言って、一所懸命、息子さんに謝ったそうです。
すると、息子は母親のそんな姿を見たのは始めてだったんでしょうね、目を真ん丸く
して、びっくりして、何か珍しいものを見る様にして見ていた。でもそのうち、息子
さんの目から涙が溢れてきたんです。

その日から、息子さんは、明るくなって、元気になって行ったそうです。
登坂さんにとっては、息子さんの不登校という出来事が、彼女をイエス・キリストに
導き、そして、罪を教え、息子さんとの新しい関係を作る事ができた。
彼女は、これを通して成長出来たんです。だから、

息子さんの不登校という出来事は、彼女にとってすべてが益に変えられたのです


2.イエス・キリストの姿に変える神の摂理

さて、もう一つ、29節から30節を見ますと、パウロが書いている言葉の中に、
5つの動詞が出て来ます。まるで真珠のネックレスの様にそれが、つながっている
わけですね。神様の摂理の御手というものが、私たちの人生にどういう風に関わって
くるのか?ということを、その5つの動詞は、表しているんです。

(1)「あらかじめ知っている」

先ず、最初の動詞は、「あらかじめ知っている」という言葉です。
神様は、私たちをいつから、知っていらっしゃるのか?
私たちが神様を信じた時からでしょうか?そうじゃないですね。聖書を見ると、

「世の基が据えられる前から」

私たちが、神様を信じる遥か前から、神様の方は、私たちの事を知ってらっしゃった
ということです。よく試練の中にある人はですね、お祈りの中に

「神様、どうぞ、私のことを見捨てないで下さい。私のことを忘れないで下さい。」

とお祈りする方がありますけれども、神様は、そういう人にこうおっしゃるんですよ。

「お前の方こそ、私を忘れるでない。」

神様が私を忘れた事は一度もないんです。
ちょっと、想像してみてください。皆さんが心から尊敬して止まない、

「あの人には、一度会いたい。」

と思っているような人に、皆さんが、会ったとします。緊張してね、

「初めまして、いつもあなたの事を尊敬していましたよ。心から尊敬しています。」

そういう人に会ったとします。その人があなたにこう言ってくれます。

「いやあ、会うのは始めてだけど、僕はずっとあなたのことをずっと前から知って
ましたよ。いやあ、良く頑張ってますね~。これからも頑張ってください。」


そう言われたら、どんな気がします?

「えーっ!この人は私に興味と関心を持って、ずっと見ていてくれたんだ!
うわあ、嬉しいなあ!感激だなあ!よーし、頑張ろう!」


そういう気になりませんか?
神様は、正に、ずーっと前から、私たちを知っていらしたんです。
今日まで、ずっと、私たちの歩みをご覧になっていたんです。
あらかじめ知るというのは、そういう事ですね。これが、最初の事です。

(2)「あらかじめ定める」

2番目は、あらかじめ知っているだけではなくて、「あらかじめ定めて」下さって
いた。つまり、私たちを救いの中に定めて下さった。私たちが神を信じる者になる
ように、あらかじめ決めてくださっていたということです。

私たちが、イエス様と同じ姿に変えられていく、全ての出来事の中で成長していく
事は、神様が決めて下さった事なんだ。選ばれているんだ。救いの中に定めて下さ
ったんだ。


(3)「召す」

3番目が、「召す」という言葉です。多分、英語の聖書は、「Call=呼ぶ、叫ぶ」
と言う言葉が使われています。これは、元々の原語の意味は、「大声で叫ぶ」という
意味です。神様は、私たちに向かって、

「おーい!」

と叫ばれたんです。
皆さんも誰かの名前を呼ぶことがあるでしょう?どういう時?

「お母さ~ん、お父さ~ん!」「花子さん、太郎さん。」

どんな時、呼ぶんですか?用事がある時です。ほとんど、そうでしょう?
まあ、人生のホンの一時期、新婚時代といいますが、その時はね、

「○○さ~ん!」

「何~?」


「ただ、呼んでみたかっただけ~」(笑)

そういう時もありますけれども、ほとんどの時は、呼ぶのは、用事があるからです。

「お~い、お茶。」

「お~い、風呂。」

「お~い、寝る。」


何てね、呼ぶときは、何か用事がある時です。
神様も私たちを呼んでくださったんです。どうして?ただ呼びたかっただけ?
違いますよ。

私たちに何かをして欲しいんです。

神様は、もちろん、全地全能ですから、人の手を借りなくても何かが出来ます。
能力的には。でも、神様は、私たち、信じる者を通して、働きたいんです。
一緒に。だから、私たちが何もしなければ、私たちを通してしたいことは、
神様は、お出来にならないということです。
神様は、あなたを通してしか、出来ないことがあるので、あなたを呼んで下さった
のです。

それが、「召す」という言葉です。


(4)「義と認める」

そして、さらに、「義と認める」。既にパウロがローマ人への手紙の中で言った言葉
ですね。それは、あなたを、「完全に律法を守った者」として見て下さる。

よく、「罰が当たる」という言葉があります。「罰が下る」
「罰」というのは、「罪」があるから、「罰」なんです。結果なんです。
でも、私たちは、全ての罪が赦されているので、神様は、私たちに罰を当てる理由が
無いんです。

クリスチャンは、絶対に罰が当たりません。全ての罪が赦されているからです。
「義と認める」というのは、私たちと神様の関係が100%正しいということです。
ただ、愛の対象でしかない。ただ、祝福の対象でしかない。
それが、今、私たちと神様の関係です。


(5)「栄光を与えるため」

そして5番目は、そういう私たちに「栄光を与える」とおっしゃいます。
これは、「栄光を与える」というのは、どういう事かと言うと、パウロが8章で言い
ました「私たちの体が購われること」を言うんです。

前回お話ししましたね、私たちの肉体は、日々衰えていきます。あちこちが痛んで
きます。体が「うめいて」いると言いました。でも、イエス・キリストの再臨の時に
私たちの体は、栄光の体に変えられるんです。

もはや、病む事もない、疲れる事もない、死ぬこともない栄光の体です。

でも興味深いのは、パウロは、将来の事なのに、

「栄光をお与えになりました。」

と過去形で書いているんです。将来の事を何で、パウロは、過去形で書いたのか?
日本語にも同じ様な表現がありますよね。例えば、友達と電話する時にね、

「明日、君の家に行った時に、何々しようね!」

あるいは、

行った時に、この間、借りてた本を返すね。」

明日のことですよ。でも「明日、行った時」って過去形で使うでしょう?
それは、どういう時かと言うと、将来の事だけれども、まあ、ほぼ100%ね、
そうすると決めている事に関しては、過去形を使うんです。

私たちの体が、栄光の体に変えられるのは、将来の事ですが、それは100%
起こることなので、パウロは、過去形を使って表現したんです。
もう、それは、起こった事と同じなんだ。私たちは、栄光の体に変えられたんだ。

この栄光とは、私たちが、御子の形と同じ姿に変えられていく。
つまり、アダムが失った神の栄光を私たちは、回復する。
それは、必ず起こることなんだ。間違いなく起こることなんだ。
それは、私たちの人生に将来の事だけれども、間違いなく起こることなんだ。
そういう意味を込めて、パウロは、過去形を使ったんですね。

パウロの確信は、イエス・キリストを信じた者は、必ず栄光の体に変えられる。


◎梅の花の襖絵の話

最後に一つの話をして終わりますが、ある所に殿様がいました。
この殿様は、梅の花が大好きだった。梅の花を見ていると機嫌がいい。
ところが、梅の花の季節が終わると、とたんに不機嫌になる。

だから、一年中不機嫌ということですよね。

殿さまが不機嫌だと、家来は困るわけですよ。ちょっとしたことで、

「この!無礼者!」

とか言ってね、

「切腹じゃ!」

とか言うからね。それで、家来たちが悩んで、何とか殿様に一年中ご機嫌で
いて欲しいと思ったんです。

で、ある家来が一計を案じたんです。
それは、殿様がいつもお住まいになっている部屋の壁や襖に梅の花の絵を描いて
貼っておけば、殿様は一年中機嫌がいいんじゃないか?


そのアイディアは、殿様のお許しも出たわけです。
そして、当代随一と言われる絵師が城に呼ばれて、描くことになったんです。

その当日、家来たちは、お城の大広間に集められ、畳の上に白い紙がダーっと
引かれて、両側で家来たちが見守っています。殿様も自分の好きな絵を書いて
くれる。しかも、一流の画家が呼ばれてね、ご満悦です。

そして、いよいよ、その画家が筆に墨を付けてね、描こうとしたその瞬間、
どこからか、一匹の猫が、その墨の中に足を突っ込み、真っ白な紙の上を
タターっと走り去っていったんです。みんな、

「ああ~~~~」

と声を上げた。殿様を見たら、眉間がピクピク動いている。もう切れる寸前
ですよ。

「この後、2、3人切腹だな・・・」

と。ところが、その絵師は、何事もなかったかの様に、筆を運んだんです。
見ていると、ある猫の足跡はきれいな梅の花びらに用いられ、ある足跡は、
梅ノ木の節に上手に用いられた。やがてその絵が完成すると、どこに猫の
足跡があったのか、わからない様な作品に出来上がった。
一流の人の手に掛るとこのようになる。

これが私たちの人生です。

皆さんの人生もふりかえってみると、猫の足跡の様なものが沢山残っている
でしょう?しかし、神様の御手に私たちの人生を委ねる時に、その足跡の
全部が、綺麗に神様の栄光に用いられていくのです。


そのためには、パウロは1つの条件を言いました。

「神を愛する者」

私たちが、神様を愛する、神様を信じるという態度を取り続けるならば、
どんな事があっても、私たちの人生のシミやしわや傷も全部が神様の作品の
一部として用いられていくのです。


聖書は、私たち自身は神の作品だと書いていますが、私たちの人生もまた
神様の作品なのです。

やがて、私たちが、天国に帰った時に、地上の人生の私たち自身の作品を見る
事があると思います。そしてきっと皆さんは、感動すると思います。

「神様、私の人生にこんな素晴らしい作品を残して下さって、感謝します。」

そのためには、私たちは、今日も明日も

「神様を愛する、神様を信じる。」

という立場を一歩も譲らないことです。そこに留まり続けましょう。

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以上、要約でした。

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