2016年3月20日の礼拝メッセージ~『試練におけるアブラハムの信仰』~「健全な不信仰」の中で「本物の信仰」は育つ  

2016年3月20日、峰町キリスト教会、安食弘幸牧師による礼拝メッセージです。



(3月第3週は、教会のメッセージ要約奉仕当番のため、その文章作成時に使用した
峰町キリスト教会第三礼拝のU-Streamの映像を文章に起こししたものです。)


「試練におけるアブラハムの信仰」

【参照する聖書の箇所】
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ヘブル人への手紙11章17節~19節
17:信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与え
  られていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
18:神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われ
  たのですが、
19:彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼
  は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。
創世記22章1節~19節
1:これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。
  神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」
  と答えた。
2:神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤ
  の地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとし
  てイサクをわたしにささげなさい。」
3:翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに
  連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げ
  になった場所へ出かけて行った。
4:三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
5:それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残って
  いなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」
  と言った。
6:アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と
  刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
7:イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」
  と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、
  どこにあるのですか。」
8:アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」
  こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
9:ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。
  そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
10:アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
11:そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。
  彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12:御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしては
  ならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、
  自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
13:アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。
  アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとして
  ささげた。
14:そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の
  上には備えがある。」と言い伝えられている。
15:それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、
16:仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このこと
  をなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
17:わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く
  増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
18:あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声
  に聞き従ったからである。」
19:こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・
  シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。

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【礼拝メッセージ】
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トヨタ自動車の社員の方が、イギリスのロンドンに出張した時、地下鉄の駅で列車を待って
いたそうです。すると、電車が来る気配がして、アナウンスが流れたんです。

「満員だぎゃ~。満員だぎゃ~。」

懐かしい名古屋弁が聞こえてきたんですね。

「ああ、次の電車、満員なんだ~。」

と思いながら、それを聞いていたんですけれども、

「でも待てよ。。。何で、ロンドンの地下鉄で名古屋弁が流れるんだ。。。」

と。そう思い直して、目の前の表示を見たら、

「Mind the gap!」

と書いてあったんです。それは、耳では「満員だぎゃー」と聞こえる訳ですが、
意味は、、、

「次に来る列車とホームの間が離れていますので、足元に気を付けて下さい。」

という意味なんですね。

「そのギャップがあるから、気を付けろ。」

「Mind the gap!」(=「ホームと車両の隙間にお気を付け下さい」)

これを続けて言うと、

「マイン ザ ギャップ」⇒「まいんだぎゃー」⇒「満員だぎゃ~。」

名古屋弁に聞こえると。
もしかしたら、名古屋弁は、英語に近いかもしれません(笑)。

ところで、皆さんと神様との間には、どのくらいのギャップがありますか?
凄く離れている人は、警告の声、

「満員だぎゃ~。」

が聞こえてくるかもしれませんね。

今日、今、読んだところに出てきた人は、アブラハムという人です。
彼と、神様は、正に一体となって、アブラハムは神様に寄り添うように人生を歩み
続けた人です。今日は、このアブラハムの信仰から、もう一度学びたいと思います。

1.アブラハムの信仰の試練

創世記の22章の1節には、
「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。」


と書かれています。
試練がやって来ると、その人の信仰が、本物かどうかが解ります。
その人の本気度が試されます。

聖書の中に試練という言葉が出てきますが、試練という言葉は、神様を信じている
人にしか使われていません。神様を信じる人々にしか、試練という言葉は無いんです。


じゃあ、神様は、何のために試練を与えるのかというと、それは、その人が持って
いる信仰を、さらに引き上げるため。そのために神様は、試練というモノを用いら
れる。ですから、聖書に「試練」という言葉は、積極的な意味で、用いられている
ということです。

したがって、ここで神様がアブラハムに試練に遭わせられたと書かれている目的は、

「アブラハムの信仰は、もう既に十分素晴らしかったかもしれないけれど、神様は、
彼の信仰を、さらに引き上げ、さらに飛躍させようと思われて、この試練を用意
された。」


という意味がそこに汲み取れるわけですね。

では、この時に、アブラハムが直面した試練とは、どんな試練だったのか?
もちろん、アブラハムの人生は、今まで、何度も、試練がありました。

例えば、先ず75歳の時です。
彼は、カルデヤのウルという所に住んでいました。
今のイラクにある場所ですけれども。

彼は、もう75年間、そこで生まれ育って、十分その地域で成功者として暮らして
いたんです。ところが、神様が、彼に声を掛けて、

「アブラハム、お前の生まれ故郷を後にして、私が、示す地に向かって出発しろ!」

これは、アブラハムにとって、ある意味、大きな試練だったと思います。

「自分が、今まで築き上げたモノを、そこに置いて、新しい出発をしなさい。」

その後も、エジプトの女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルという息子が
おりましたけれども、神様は、家庭の中のいろんな問題のために、この

「ハガルとイシュマエルをお前の家から、追い出せ!」

とおっしゃったこともあります。
これも、彼にとっては、大きな試練です。

その後、神様は、自分とその妻サラとの間に子供を与えるとおっしゃって、

「それを信じるか!?」

とおっしゃった。
それも、彼にとっては、信仰の試練だったと思います。

しかし、今日、ここに書かれている試練は、今までの試練とは全く違います。
それは、人の命に関わる試練だったからです。

どんな試練か?神様は、彼に

「アブラハムよ。」

と呼びかけられます。するとと、アブラハムは、

「はい。ここにおります。」

「はい。ここにいます。」というのは、単にここに居ますよと、場所を表す意味
ではないんです。

「神様、私は、ここに控えております。何でもお申し付け下さい。」

まさに、僕(しもべ)の心ですね。

神様「アブラハム。」

アブラハム「ハイ、主よ、私はここに居ります。どんな事でもお申しつけ下さい。」

すると、神様は、こうおっしゃいました。

2節
「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行き
なさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとして
イサクをわたしにささげなさい。」


全焼の生贄とは、動物を丸ごと一頭、そのまま神様に捧げることです。
もちろん、殺してです。全部、火に焼くんです。
ここで、神様は、なんと驚くべきことを、アブラハムに告げられたでしょうか?

「お前の愛しているあのイサクを、丸ごと、私への生贄として捧げよ。」

25年待って、やっと、与えられた息子です。
そして、愛情込めて育てて、やっと10代になったんです。
正に、イサクは、アブラハムにとって希望の星です。

これから、イサクは、どんな女性と出会って、どんな結婚をし、どんな家庭を
作るんだろう?やがて生まれて来る子がいるなら、それは、私の孫だ。
アブラハムは、イサクを通して、自分の将来を夢見ていたんです。

ところが、その「イサクを捧げよ。」という神様の命令です。

このイサクは、アブラハムにとって、愛する息子であっただけではなく、
約束の子でもあったわけです。

まだ、イサクが生まれる前に、神様は、アブラハムにこうおっしゃったんです。

「空を見上げてごらん。星が見えるだろう?
お前の子孫をこの星の数の様にしてあげる!」


そして、やがて、イサクが与えられ、その約束が、イサクを通して広がっていく
んです。

約束の子です。

しかし、そのイサクを今、殺してしまったら、あのときの神様の約束は、どう
なるんだ。もう、アブラハムの頭の中は、ぐるぐる回って、

「どうなっているのか???」

「イサクをささげよ。」というこの声を聞いた時に、アブラハムは、何故、その
声が神様の声と解ったのでしょうか?普通ならば、前の神様の約束と、今度の神様
の命令は、矛盾するんです。

普通だったら、その「イサクをささげよ。」という声を聞いた時に、

「これは、神の声では無い。悪魔の声だ。下がれサタン!」

と言ってもおかしくない。
でも、アブラハムは、それも、神様の声と受け取ったんです。
何故、神の声と解ったのか?理由は、簡単です。

それは、75歳の時から、ずーっと何十年も聞き続けた声だったからです。
同じ声だったんです。だから、これも、神の声と解ったんです。

あの小さなお子さんをお持ちのお母さんね、後ろで自分のお子さん、息子
や娘が泣いたら解るでしょう?

「あ、家の子が泣いてる!」

って。それは、いつも聞いている声だからです。
アブラハムにとって、ずーっと聞き続けた声が、今、「イサクを捧げよ。」
とおっしゃった。だから、これは、神様の命令だと解ったんです。

さあ、アブラハムは、この信仰の葛藤の中にありながら、信仰の道を貫こう
とします。で、アブラハムは、何をしたのか?

3節「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクと
をいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。
こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」


直ぐに行動を始めています。私たちは、神様の声を聞いたら、どうするんで
しょうか?

「主よ、ちょっと考えさせて下さい。。。3年くらい。。。」

とかね、言い始めますよね。でも、アブラハムは、翌朝早く行動を始めます。

ふたりの若い者と一緒にイサクを連れて、その住んでいるベエル・シェバを出発
して、モリヤの地に向かって行きます。ちょうど北の方に向かって進んで行く
んですね。

そして、3日目に、神様が示されたモリヤの山が見えました。
そると、アブラハムは、若者2人をそこに残し、彼らにこう言います。

「私と子どもとはあそこに行って、礼拝をして、また戻って来る。」

とこう言いました。

アブラハムは、ハッキリとした確信は無かったけれども、神様に対する何か信頼感
を持っていたことを感じさせる言葉です。

「これから、イサクを捧げに行く。でも、神様は、何かご自身の計画があって、
私たちは、また無事に帰って来れる。」


そういう不思議な信仰による確信ですね。

6節「アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに
負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。」


2人は、どんな気持ちで、特にアブラハムは、どんな気持ちで歩いたでしょうか?
もうすぐ、この隣で歩いているイサクを、その地に着いたら殺さなければならない。
それは、沈黙の歩みだったと思います。

そして、その重たい沈黙を破って、イサクが、アブラハムに聞きます。7節、

7節
「お父さん。火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるの
ですか。」


それは、アブラハムが、一番されたくない質問だったと思います。
でも、アブラハムの答えは、

8節
「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」


この言葉の中に、アブラハムの不安と恐れと同時に、何か希望と期待も同時に込めら
れています。

「こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。」

とあります。

試練というものは、しばしば、私たちを孤独の中に投げ込みます。
もちろん、試練に遭っている時に、助けてくれる友達や、祈ってくれる友達はいるでしょう。
でも、自分に変わって、その試練を受けてくれる人は誰もいません。
自分が、一人で向かって行かなければならないんです。


アブラハムは、この孤独の中にあっても、信仰の歩みを止めていません。

そして、2人は、その示された場所にやって来ます。
アブラハムは、石を集めて、祭壇を築いて行きます。
やがて、祭壇が出来ました。すると、イサクが背負っていた薪を祭壇の上に並べます。

2.アブラハムの信仰の葛藤

その次にアブラハムがしなければならないことは、イサクを縛って薪の上に乗せることです。

皆さん、この時のイサクは、赤ん坊ではないんです。もう10代の若者です。
10代の若者が、次、自分の身に何が起こるか解かっていながら、黙々と縛られていくん
です。アブラハムの信仰も素晴らしいけれども、イサクの信仰も素晴らしいでしょう。

もし、イサクが、反抗的な10代の若者だったら、何をしたと思いますか?
お父さんが、縛り始めたら、、、

不良イサク「お父さん、何するの!?(怒)」

アブラハム「いや、お前を縛って、生け贄にするんだ。」

不良イサク「お父さん、やめてよ!!冗談は、顔だけにして!!(怒)」

まあ、そんな事を言いながら、お父さんを縛って乗せるんです。(笑)

でも、イサクは、そうしませんでした。

イサク「お父さんのすることに、間違いはない。
お父さんは、神の声を聞いて、これをそうしているんだ。」


彼は、黙って縛られるんです。凄い信仰ですね。
そして、やがて、アブラハムは、イサクの体を持ち上げて、薪の上に置こうとします。
多分、アブラハムにとっては、時間が、永遠に止まって欲しいと思ったと思います。

その時に、小さな時から、今日までのその思い出が、全部蘇ってきたと思います。
100歳の時にやっと与えられた、あの喜び。そして、赤ん坊のイサクを抱いて、
お乳を飲ませる(お乳を飲ませるのは、奥さんですけれども)、おむつを変えたり、
食事を与えたり、お風呂に入れたり、そして、夜一緒に寝たこともあったと思います。
その寝顔を何時間も飽きずに、見続けた。そういう全部の思い出が、蘇って来たと
思います。

辛かったと思います。アブラハムは。彼は、当然、葛藤したと思います。

「本当にこれで、いいのか?」
「本当にこれが、神様の御心なのか?」
「本当に神様は、このことを望まれているのだろうか?」


「いや、でも、神様は、確かにそうおっしゃった。」

アブラハムの心は、揺れたと思います。
アブラハムは、そういう苦悩の中で、
イサクを置いて、
刀を抜いて、
振り上げて、
降ろそうとします。

その時です。

ちょっと、待って下さい。まだ、ハッピーエンドに行くには早すぎます。
その時のアブラハムの心情を理解して下さい。
彼は、イサクを殺すことによって、自分の将来の希望や夢や期待も一緒に殺そうとして
います。当然、アブラハムの中に葛藤が、あったと思います。信仰の葛藤です。

アブラハムの姿勢から学ぶことは、

「信仰を持つということは、絶対に迷わないということではないんです。」
「絶対に疑ってはいけないということではないんです。」


彼は、多いに悩んだはずです。多いに疑ったはずです。
でも、結果的に、彼のそういう迷いや悩みの中で、彼の信仰がより確かなモノにされて
いったはずなんです。

「健全な不信仰」ということが、あっていいんだと思います。

神様の御手の中で、迷ったり、疑ったりする。
その中で、私たちの信仰は、育って行くんです。

ある教会に行くとですね、牧師がこう言います。

「疑うことは、罪です!」
「迷うことは、悪です!」
「皆さん、疑いが生じたなら、私の言葉を信じなさい!」
「私の言葉は、神の言葉ですから!」
「私が、白いモノでも、黒いと言ったら、黒いんです!」


ねえ、

「白いモノでも、黒いと思って見てれば、黒く見えます!それが、信仰の力です!」

これは、危ないです・・・。

ねえ、もし、私(安食師)が、そんな事を言い始めたら、張り飛ばして下さい。(笑)

間違っています。信仰は、迷うべきものです。
健全な不信仰というモノがあるんです。
神の御手の中で、迷って欲しい、疑って欲しい、アブラハムもそうしたんです。

その健全な不信仰というものが、実は、私たちの信仰を育てていくんです。
より、確かなモノにしていくんです。


アブラハムは、一見、理不尽と思われる神の求めに従っています。
ヘブル11章17節にこう書いてあります。

ヘブル11章17節
「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。
彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。」


そして、創世記には、その様子が、劇的にリアルに書かれています。

創世記22章10節~13節
「アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
そのとき、主の使いが天から彼を呼び、

「アブラハム。アブラハム。」

と仰せられた。
彼は答えた。

「はい。ここにおります。」

御使いは仰せられた。

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしては
ならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。
あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」


アブラハムは、イサクを捧げたんです。もし、神様のストップがかからなかったら、
彼は、刀を振り下ろしたはずなんです。神様は、アブラハムの心をご存じだったん
です。だからもう、イサクを殺す必要は無かったんです。だから、「ストップ」と
おっしゃったんです。

アブラハムは、自分の理性で理解できない出来事を、どう乗り越えて行ったのか?
それは、「信仰によって、そうした。」と書いてあるんです。


3.アブラハムの信仰の勝利

じゃあ、その時にアブラハムが持っていた信仰とは、どんな信仰だったのか?
それが、ヘブルの11の19に書かれています。

ヘブル11章19節
「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。」


「考えました」というのは、「確信した」ということです。
「そう信じた」という意味です。

口語訳聖書では、
「彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。」


と訳されています。つまり、アブラハムは、死人を蘇らせることの出来る神の力、
復活の力を信じたんです。

「イサクは、約束の子だ。だから、今、自分が捧げても、神は死の中から、もう一度、
イサクを呼び戻し、私の手に帰してくださる。」


つまり、復活の信仰をアブラハムは、持ったということです。

さらに19節
「それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」


と書いてあります。

「型です」というのは、「前ぶれです」。

やがて、これが起ころうとすることの前ぶれです。ということです。

じゃあ、後に起こることとは、何か?

「イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事です。」

やがて、神が、死の中から蘇られるということの「前ぶれ」として、このことが
起こったんですよ。と聖書は、こう言います。

アブラハムが、自分の独り息子イサクを捧げたその場所で、それから2000年後
に、同じ場所で何が起こったか?

それは、神ご自身が、愛する自分の独り子、イエス・キリストを十字架に架けてくだ
さったその場所なんです。

その時は、「ストップ」かからなかったんです。
本当に神は、自分の独り子を、私たちのために捧げて下さったんです。


それが、十字架のキリストの死です。

私たちの罪の贖いのために、神の独り子が、屠られて下さったんです。

私たちが、試練に出会った時に、それを乗り越えさせるものは、信仰です。
どんな信仰か?それは、2つの要素が必要ですね。

1)神様は愛である

1つは、「神様は愛である」ということです。

聖書は、繰り返し、繰り返し、「神は愛である」と宣言しています。

「神は、愛かもしれない。」

とか、

「神は、愛である時もある。」

とは書いていないんです。神様は、永遠にいつも、愛なるお方です。
私たちを愛しておられる方です。

皆さん、愛するっていうことは、どういうことかというと、その対象のために、
愛している対象のために、いつも、最善と最高をするということです。

皆さんもご自分が、愛している子どもとかね、孫とかね、考えて下さい。
皆さんは、愛している人のためには、最高の事をしてあげたいでしょう?
最善をしてあげたいでしょう?

でも、残念なことに、私たち人間は、能力的にできなかったり、時間的に難しかった
り、或いは、経済的に難しいということがあるわけです。

でも、神様には、何の制限も無いんです。
神様は、私たちに最善、最高以外、以下のことは、出来ないんです。
何故なら、愛しているからです。

あなたの人生にどんな事が起ころうと、神様は、愛という動機以外では、決して
それをあなたには与えないということです。

どんな試練がやって来ても、その背後には、神の愛があるという事を疑わないと
いうことです。

2)神は復活の力を持っている

2つ目は、「私たちの神は、復活の力を持っている」ということです。

もう絶望的な状況に陥っても、一瞬の内に、それをひっくり返すことの出来るお方だ。
ということです。

この信仰によって、私たちは、試練を乗り越える事が出来ます。
アブラハムが、ここで乗り越えた信仰も、正にその信仰だということです。

最後にあるご夫妻の体験をご紹介します。

このご夫婦は、結婚して15年が経ちましたが、子供がまだ与えられません。

「子供を与えてください。」
「主よ、私たちに子供を与えて下さい。」


と何回祈った事でしょう。でも15年経っても、子供は与えられませんでした。
その間、不妊治療も何回もやってみました。でも、成功しませんでした。
そして、彼らは、自分たちと同じ年頃のご夫婦が、子供を歩いている姿を見ると、

「本当に羨ましい・・・」

と思います。でも、祈っても、祈っても、何をやっても、子どもが与えられない。
2人は、とうとう、こう決めたんです。

「世の中には、子供のいない夫婦が沢山いらっしゃる。私たちもその夫婦なんだ。
神様は、私たちに子供のない夫婦として仕えよと仰っているんだ。」


そう決めたんです。そう決めたそのすぐ後に、妊娠検査薬に変化があったんです。
奥様が妊娠したんです。まるで、自分たちが、アブラハムとサラの様な気持ちだった
と思います。もう、諦めていたのに、子供が与えられた。

そして、やがて、元気な男の子が与えられたんです。
彼らの将来に大きな希望の扉が開きました。

ところが、この2人に試練が襲ったんです・・・。
この男の子が3歳になった時、庭で遊んでいて、ボールを追いかけて道に飛び出して、
車にひかれて亡くなったんです。

彼らは、喜びの絶頂から、悲しみのどん底に叩き落とされました。

そして、その悲しみがやがて、神様に対する怒りになりました。

「神様!途中で取り去るんでしたら、初めから与えないでください!」
「私たちは、もう子供が無いと諦めていたのに、あなたは、私たちを喜ばせて、そして
奪って、悲しみのどん底に叩き落とされた。こんな悲しみを経験させるのなら、最初から
与えないで下さい!」


彼らは、悶々としたんです。

「なんで、こんな事が・・・。神様、何故ですか?どうしてですか?

祈っても、祈っても、満足のいく答えは、見つけられない。
彼らは、正に、不信仰の中に投げ込まれていくわけです。

でも、彼らは、神様からは離れようとはしませんでした。
だから、彼らも「健全な不信仰」の中に陥ったんです。
何年も何年も悶々としました。
しかし、やがて、彼らの中に光が与えられたんです。

彼らは、信仰によって、一つの確信が与えられたんです。

それは、神様は、愛である。

「この出来事の中にも、神様の愛という要素以外何も無い。
私たちには、理解できないけれど、神の側からみれば、これは神の愛なんだ。」


そして、彼らは、一つの事に気が付いたんです。

自分たちは、息子を失ったんじゃない。二度と失う事のない場所に、神様が移されたんだ。

彼らはこう告白しています。

「始め、息子を与えて奪われるくらいなら、最初から与えられない方が良かったと神様を
恨みました。しかし、私たちは、息子を失ったのではありません。二度と失うことのない
場所に移されただけなんです。
 神様は、私たちの信仰が弱いのをご存じで、大切な息子を先に天国へ迎えて下さって、
私たちが、迷うことなく信仰の道を全うして天国に来る様にされたのだと思います。
 もし、子供がなかったら、私たちは天国へ行っても、自分たちの子供に会う事はできな
かった。でも、神様は天国で私たちの子供に会えて、そして、二度と永遠に引き裂かれる
事のないそのような状況に息子を移してくださったんだ。」


これが、彼らが信仰的に乗り越えられた原因ですね。

皆さんの中にも、もしかしたら、自分の最愛の息子や娘や孫を天国に送った方もいるかも
しれません。或いは、お腹の中の胎児を、生まれてくるはずの子供を天国に送った方もい
らっしゃるかと思います。その子供たちは、天国にいます。

あなたが、信仰の道を全うし、天国に帰る日、彼らは、あなたを迎えてくれるはずです。

復活の信仰は、私たちに、天国での再開の希望を与えてくれます。
この試練の真ん中で、アブラハムがそれを乗り越えた信仰は、私たちも持つべき信仰です。
ですから、聖書は、

「アブラハムは、私たちの信仰の父だ。」

とこう言います。

「アブラハムの信仰に倣え。」

この信仰をあなた方も持つべきだ。
試練は、決して私たちを叩き潰すためのものではなく、私たちを更に素晴らしい世界へ
導いていくための神様の愛の手段であるということです。

もし、皆さんの中で、試練の中にいらっしゃる方がおられましたら、どうぞ、この信仰
で乗り越えて頂きたいと思います。

一緒に祈りましょう。
愛する天のお父様、この世の中には、私たちの経験や、常識では計り知れない出来事が
たくさんあります。でも、あなたは、この世界を支配し、私たちを愛して下さっていて、
私たちの人生に起こる出来事は、あなたの愛という動機以外の何物でもないことを覚えて
います。どうか、その事をしっかり心に止めながら、人生を歩むことができます様に。

どんな試練がやって来ても、それは、私たちから、何かを奪うものでは無く、私たちを
さらに素晴らしい恵みの世界へと高嶺へと導くモノであることを、覚えさせて下さい。
今週も、そのあなたと一緒に日々歩めることをありがとうございます。どうか、導いて
下さい。イエス様の御名によって、お祈りします。アーメン。

--------------------------------------------------------------------------------
以上、2016年3月20日の礼拝メッセージでした。

Posted on 2016/03/26 Sat. 20:06 [edit]

category: 聖書

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