2017年4月9日の礼拝メッセージ~『安息日の主であるキリスト』~安息日の本当の意味

2017年4月9日、峰町キリスト教会、安食弘幸牧師による礼拝メッセージです。

「安息日の主であるキリスト」



【参照する聖書の箇所】
--------------------------------------------------------------------------------
ルカの福音書6章1節~11節
1:ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手で
  もみ出しては食べていた。
2:すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならな
  いことをするのですか。」
3:イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデの連れの者といっしょにいて、
  ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
4:ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない備えのパンを取って、
  自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
5:そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主です。」
6:別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。
7:そこで、律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見
  ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
8:イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中
  に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。
9:イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行う
  ことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うこと
  なのか、どうですか。」
10:そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。
  そのとおりになると、彼の手は元どおりになった。
11:すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。

--------------------------------------------------------------------------------
【礼拝メッセージ】
--------------------------------------------------------------------------------
今日は、今、読んでいただいた箇所から、安息日について、一緒に考えたいと思います。

あの、ユダヤ教では、安息日にタバコを吸ってはいけないことになっています。
ところが、こともあろうか、ユダヤ教の神学校に行っている3人の神学生が、安息日に
教室でタバコを吸っているのを先生に見つかってしまったんです・・・。

先生は、厳しく問い詰めます。

「どうして、こういうことになったのか?ちゃんと納得のいく理由を述べなさい。」
「その理由如何によっては、退学処分も有りうる。」


こう言われたんですね。で、最初の学生はこう言いました。

学生1:
「先生、すいません。僕は、今日が安息日であることを忘れていました・・・。」


2番目の学生は、

学生2:
「先生、すいません。僕は、安息日にタバコを吸ってはいけないことを忘れていました・・・。」


3人目の学生がこう言いました。

学生3:
「先生、すいません。教室でタバコを吸う時、(見つからない様に、)カーテンを閉めるのを
忘れていました・・・。」


まあ、3人とも、アウトでしょうねえ(笑)。

ユダヤ教では、一週間の一番最後の日、土曜日を安息日として、守っています。

「一切の労働から離れて、神様の御前に出る日」

これが、安息日ですね。

1.安息日に麦の穂を摘んで

この安息日の制度というものは、どこから来たものかと言いますと、
それは、創世記の1章です。

神様が、この世界をお造りになる時に、六日間かかって、完成されました。
そして、七日目には、それを祝福して休まれたと書いてあります。
ですから、私たち人間も、六日間働いて、最後は神の前に出て、神様の祝福を受け取る。
それが、安息日ということの意味ですね。神様の創造の御業を覚える。

もう一つの理由は、これは、出エジプト記に由来します。
昔、イスラエルの民は、エジプトで奴隷だったことがあります。四百年間。
奴隷たちには、休みの日などありません。安息などはありません。
その苦しい中を、神様は、モーセという人物を起こして、彼らを解放して下さった。
そして、もう一度彼らは、安息を取り戻したんです。
つまり、出エジプトの出来事を忘れないように。
こうして、今もユダヤ人たちは、安息日というものを厳しく守っているわけですね。

ところが、イスラエルの歴史を見る時に、紀元前586年に、バビロンの国が攻めて
来ます。そして、イスラエルの人々を捕虜として、バビロンに連れて行くわけです。
これが、バビロンの捕囚という出来事ですが、結果的に彼らは、70年間バビロンで、
過ごすことになります。

70年ということは、連れて行かれた人の子や孫、次の世代もまた次の世代もそこで
生まれることになります。そうすると、異教社会で生まれ育った人は、自分たちが、
ユダヤ人であるというアイデンティティが持ちにくいわけですよね。

では、どうやって、自分がユダヤ人であることを自覚したかとういうと、2つの事だ
ったんです。

1つ目は、男の人は、生まれて8日目に割礼を施す。
2つ目は、安息日を守るということです。

ところが、この割礼というのは、男性しか受けません。
しかも、割礼を受けているかどうかは、洋服を着てしまったら、解からないわけです。
ですから、外から見て、

「あ、彼らは、真の神を信じているユダヤ人だ。」

ということが解るのは、安息日をきちっと守っているかどうか?ということなんです。
ですから、この安息日を守るということが、非常に厳しく要求されてきたわけです。

その後、ユダヤ教のパリサイ派の人たちが、人々をユダヤ教に改宗していくんです。
そして、ユダヤ教に改宗した人たちに厳しく安息日を守ることを要求していったわけ
ですね。

彼らの律法学者たちは、安息日は、一切の労働はせずに、神の前で過ごす時です。
でも、何はしてもいいのか?何はしてはいけないのか?安息日のしてはいけない禁止
事項を律法学者たちが決めていくわけですよね。

例えば、安息日にしてはいけないことは、

「種を蒔くこと」
「収穫すること」
「脱穀すること」
「ふるいにかけること」
「縄を結び、結び目を作ること」
「文字は2文字以上書いてはいけない」
「安息日に出歩くことのできる距離は1Kmまで。それ以上は遠くへ行ってはいけない。」


こういう風に、律法学者たちが、事細かくしてはいけない禁止事項を作っていくわけ
です。当然それは、時代の変化と共に増えていくわけです。
人々のライフサイクルが変わっていくからです。

禁止事項が、時代と共に変わったり、付け加わったりするわけです。

例えば、現代のユダヤ人たちの安息日にしてはいけない禁止事項は何かといいますと、

「安息日には、傘を差してはいけない」
「インターネットなどの通信機器を使ってはいけない」
「電化製品の使用も禁止」
「写真を撮ること、撮られることも禁止」
「車の運転も禁止」
「金銭について話すこと、つまりビジネスについて話すことも禁止」
「買い物をすることも、料理をすることも安息日には禁止」
「安息日には、エレベーターのボタンを押すことも禁止」


こういう風に時代と共に禁止事項がどんどん増えていくわけです。

ちょっと不思議に思いませんか?
「エレベーターのボタンを押してはいけない。」

まあ、エレベーターがない家に住んでいる人はいいですけど、高層アパートの上の方
に住んでいる人は、安息日はどうするんですか?階段を使うしかないんでしょうか。
彼らは考えたんですね。

安息日用のエレベーターを考えたんです。

ボタンを押さなくても、例えば10階に行こうと思えば10階に行ける。
どういうシステムになっているかと言いますと、エレベーターが勝手に1階で開くんです。
そして勝手に閉じるんです。1階登って2階に来るとまた勝手に開くんです。閉じるんです。
3階以上の階でも同じことをずっと繰り返すんです。

そうすれば、とりあえず黙って乗っていれば、自分が行きたい所にいつか着くわけです。
ボタンを一切押さなくても。
これぐらい厳しくですね、禁止事項を絶対破らないということを、彼らはこだわるわけ
ですよね。

私たちにとっては、何か可笑しい、笑っちゃいそうなことですけれども、彼らはすごく
真面目にそれを守っているわけですよね。

今日の箇所には、イエス様とパリサイ人との安息日に対する理解の違いから、ある衝突
が起こっている。そういう箇所です。

今日の箇所から、安息日に対する正しい理解というものを、イエス様の教えから学んで
おきたいと思います。

先ず、1節を見て頂きますと、

1節「ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、
  手でもみ出しては食べていた。」


と書いてあります。
麦畑の中を走っている小道をイエス様と弟子たちが歩いていたんでしょうね。
そしたら、ちょっと小腹が空いたんでしょうか?弟子たちが収穫前の麦の穂をちょっと
ちぎって、もんで殻を吹き飛ばして、食べていたんです。

これを見たパリサイ人が厳しく追求しているわけですけれども、自治は、人の畑の麦の穂
を摘んで食べること自体は、これはモーセの律法に反していないんです。
モーセの律法、申命記の23章にこう書いてあるんですが、

申命記23章25節:
「隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で
かまを使ってはならない。」


と書いてあるんです。

例えば、人の畑の麦畑でも、手で取るぐらいだったら構わないよ。
でも、かまを持って行ってですね、ガサガサ収穫する様なことは、構うよ。
とおっしゃったわけです。

ですから、弟子たちが人の家の麦畑をちょっと摘んでね、それを食べたこと自体は何も
違反じゃないんです。

じゃあ、パリサイ人たちは、何を問題にしたかと言うと、実は安息日の禁止事項の中に、
「収穫する」「脱穀する」「ふるいにかける」「食べる」というものがあります。

つまり、弟子たちは何をしたかと言うと、
先ず「取った」でしょう。これは「収穫」なんです。
そして「もんだ」んでしょう。これは「脱穀」なんです。
で、「殻を吹き飛ばした」でしょう。これは、「ふるいにかけること」なんです。
そして、「食べ」ちゃった。


まさにこれは、「取る」こと自体は問題じゃない。

「安息日にしてはいけない行為を彼らはしたんだ。」

と言って、イエス様を責めているわけですね。

まあ、一見バカみたいな話ですけれども、これは、パリサイ人にとっては、絶対に許せ
ない行為だったんです。

ですから、2節で、

2節「すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしては
  ならないことをするのですか。」


とこう問いかけているわけです。

それに対して、イエス様は、ユダヤ人ならば、誰でも知っていて尊敬している先祖ダビデ
がとった行動をここで説明して、反論なさっているわけですね。

ダビデは何をしたかと言いますと、第一サムエル記の21章を見ると、
ダビデが家来たちと行動している時に、幕屋に供えてあったパン、それを一緒に食べて
しまった。実は、そのパンは、祭司しか食べられなかったんです。
ダビデもその家来も祭司ではないですから、本来は彼らが食べるべきものではなかった
んですね。

でも、ダビデがそれを食べた時に、そして供の者も一緒に食べた時、神様は、それに
対して何もお咎めをなさっていないわけです。

それは、どういうことかと言うと、

「安息日に大切な事は、それは禁止事項を守ることよりも、自分の命を守ることを優先
してもいいんだ。」


とおうことをダビデの例えは説明しているわけです。

ですから、

「今、弟子たちが、麦の穂を取って、自分の命の糧として頂くことに何の問題
があるのか?ダビデだって、そうしたんだよ。」


と言って、反論しておられるんですね。そして5節

5節「そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主です。」」

つまり、イエス様は、こうおっしゃったんですね。

「律法というものは、神様が人間にある意図をもって与えたものだ。
 律法は、本来は、人の命を守るために与えられたものなんだ。
 でも、あなた方は、人の命よりも、律法を守ることを優先しているじゃないか?」
 律法の本当の意味は、律法を与えた神様にしか解らない。あなた方の理解は間違
 っている。私は神だから、律法の本当の精神が理解できるんだ。」


こう言って、イエス様が反論されたわけですよね。

パリサイ人は、イエス様が反論された聖書の出来事は知っていたんです。
でも、真の意味を理解していなかった。
気を付けないと、私たちも同じ様な過ちを犯す恐れがあります。

こういう言葉があるのをご存じでしょうか。

「論語読みの論語知らず」

論語の言葉は暗記していても、全然それを行っていない。という意味ですね。

同じ事がクリスチャンにも起こります。

「聖書読みの聖書知らず」

聖書は読んでいるが、生き方に取り入れていない。
パリサイ人たちは、ダビデの出来事は知っていたんです。
でも本当のメッセージを全然理解していなかった。

悲しい事ですけど、クリスチャン同士がお互いを裁き合う事がありますよね。

よくこういうケースがあります。
キリスト教は、大きく分けて、プロテスタントとカソリックに分かれているわけ
ですが、それぞれ自分の立場を正当化したいために、相手を非難し合うんです。

プロテスタントの人が、カトリックの人を非難する際の常套句はですね、

「彼らは、偶像崇拝者だ。」

というんです。カソリックの教会に行くと、マリヤ様やいろんな聖人の像があって、
人々がそこで額づいているから、偶像礼拝だと非難するわけです。

色々な像や絵が描かれているからです。

逆にカソリックの人は、プロテスタントを見てね、

「あいつらは裏切り者だ。カソリックを裏切って出て行った異端者だから。」

とこういう風に言うわけです。

或いは、同じプロテスタントの中でも、いろいろ教理的に強調するものが違うんです。
いわゆる「聖め派」という人は、

「私たちは、聖めを経験した。でも、あなたたちは、それを経験していないからダメ。」

こういう言い方をするわけです。逆に、

「私たちは、聖霊について知っている。あなたたちは知らないからダメだ。」

とこういう言い方をするわけですよね。でも冷静になって考えて下さい。

本当に聖よめられた人は、人を非難しますか?
本当に聖霊に満たされた人は、誰かを差別しますか?


確かにその教理については詳しいかも知れない。でも聖書の一番大切な教えはこうだ。
とイエス様が仰ったんです。

「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。」

その精神がもし踏みにじられていいるとしたら、どんなに立派な考え方を持っていても、
それは、まさに、

「聖書読みの聖書知らず」

と言っていいと思います。

気を付けないと私たちも、現代のパリサイ人になる可能性があります。

2.安息日に右手のなえた人をいやす

今度は、別の安息日に起こったことです。今度はユダヤ人の会堂で起こりました。
そこに右手のなえた人がいました。多分、右手ですから、彼の利き腕でしょうね。
利き腕が不自由だということは、かなり不便です。

律法学者やパリサイ人たちは、イエス様が安息日にその人を癒すかどうか注意深く
見守ったんです。イエス様はこれまでも、沢山の病人を癒してこられたんですが、
安息日にそれをするかどうか?

というのは、安息日の禁止事項に医療行為というのが入っていたんです。
安息日には、一切医療行為はしてはいけません。
但し、例外がありました。

それは、今手当をしないと、その人が死んでしまう。直接命に関わるような医療行為
はしてもいい。でも、そうじゃないものはしてはいけなかったんです。
では、聞きます。

「右手がなえているのは緊急性を要しますか?」

別に今日じゃなくても、明日まで待てばいいわけですね。
でも、イエス様は、敢えて、パリサイ人が禁止事項と考えている医療行為を安息日
の、しかもみんなが集まっている会堂の真ん中でなさろうとしたんです。

そして、もし、イエスが安息日に医療行為をしたら、すぐに彼らは、イエス様を
告発する理由を見つけることになるわけです。

イエス様は、そういうパリサイ人の意図を知っていながら、何をされたかというと、

10節「そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい。」と
  言われた。そのとおりになると、彼の手は元どおりになった。」


と書いてあります。まさに、挑戦するかの様に。
この「元通りになった」と訳されている言葉は、聖書の他の箇所では、こんな風に
訳されています。

使徒の働き3章21節:
「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者達の口を通してたびたび語られた、
 あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」


と言われている「あの万物が改まる時」が、「元通りになる」と同じ言葉なんです。
ここで使徒の働きで言われている事は、

「イエス・キリストの再臨の時に、この自然界がもう一度最初の創造の姿に回復する
んだ。神様が一番最初に自然界を作られた時は完璧だった。何の問題もない。まさに
自然界は、いのちに満ち溢れていたんです。ところが、その管理を任された人間が堕落
してしまったために、人間は、自然界を破壊するようになってしまった。そして自然界
は力を失ってしまった。でもイエス・キリストの再臨の時、この弱った自然界がもう一度
力を回復し、最初の創造の時の様に、いのちみなぎる様に回復されるのだ。」


と言う意味です。
その言葉が「元通りになった」という言葉に使われているんです。

これは、どういう意味かと言いますと、

イエス様の言われる安息日とは、

(1)安息日という本来の意味は、疲れた人が元気を回復する日なのだ。病んでいる人が
  健康を回復する日なのだ。失望している人が希望を回復する時なんだ。安息日こそ、
  病気の人を癒すのに、最もふさわしい日なのだ。


こうイエス様は、おっしゃったんですね。
それは、「元通りにする」「回復する」、

(2)天と地が元通りの姿に回復する。安息日は、そのことを覚える日なのです。神様の
  創造の六日間の御業を覚える日であり、また、出エジプトで、神様が私たちを私たちを
  奴隷から解放して下さった事を覚える日なのです。


そして3つ目は、やがて、再臨の時に、

(3)人間も本来の姿に回復していく。その日が起きるのを覚える日が安息日なのだ。
  その意味で、安息日こそ、手のなえた人を癒すのに最もふさわしい時なのです。
  あえて、彼らの安息日の概念を正されたのです。


イエス・キリストは、今日も働いてくださっている。
安息日こそ、最も神様が豊かに働いて下さる日なのです。

★「You Raise Me Up」

トリノオリンピックの時に、女子フィギュアスケートの選手で、荒川静香さんが、
金メダルを取りました。その金メダルを獲った後のエキシビジョンで彼女が演技を
披露した時に、バックに流れた曲があるんですね。

それが、「You Raise Me Up」という曲です。

この曲は彼女、荒川静香さんが、とても大切にしている曲だそうです。
彼女が、スランプに陥ったり、怪我をして、競技が続けられなかったりした時に、
この曲で励まされてきたという。そういうことを皆さんに表明するために、バック
にそのミュージックを流して踊ったんですね。

この曲は、本来は讃美歌として作られたものではありません。
でも、その内容は、正に信仰の表明そのものです。

”You”という所に、神様を当てはめれば、正に私たちへの励ましの言葉、私たちの
信仰の告白です。その“You Raise Me Up”の曲をですね、これから流します。
その前に少し、英語の歌詞を読みます。
-------------------------------------------------------------
When I am down and, oh, my soul, so weary;
落ち込んで、魂が疲れてしまった時

When troubles come and my heart burdened be;
困難がおそいかかり、心が重荷を抱えた時

Then I am still and wait here in the silence,
わたしはここで、静かに待つの

Until you come and sit awhile with me.
あなたがそばに来て そっと寄り添ってくれるのを

You raise me up, so I can stand on mountains;
あなたが勇気づけてくれるから、私はけわしい山々の頂きに立つことができる

You raise me up to walk on stormy seas;
あなたが勇気づけてくれるから、私は荒れ狂う海にも立ち向かって行ける

I am strong when I am on your shoulders;
あなたの支えがあれば、私は強くなれる

You raise me up to more than I can be.
あなたが勇気づけてくれるから、自分を越えて行くことができる

There is no life - no life without its hunger;
希望を持ってこそ人は前に進んで行ける

Each restless heart beats so imperfectly;
けれど、不安な気持ちで胸の鼓動が激しく乱される時

But when you come and I am filled with wonder,
あなたがそばに来てくれると、私は奇跡の力に満たされる

Sometimes, I think I glimpse eternity.
永遠を感じる私がいる

------------------------------------------------------------
今、YouTubeの動画を紹介します。どうぞお聴きください。

最後にお祈りをしましょう。

愛する天の父なる神様、私たちは、共に集まって神様を礼拝しています。
この時、この場所こそ、あなたが、私たちを回復させてくれる時であり、
場所であることを覚えています。

弱っている方、痛んでいる方、力を失っている方、今日、ここにおられる
イエス様に触れて、新しい力を受けて、新しい愛に溢れて、新しい知恵に
導かれて、進むことが出来るその時であり、その場所であることを感謝します。

もう一度、あなたを見上げ、あなたこそ、私たちの力であることを感謝します。
--------------------------------------------------------------------------------
以上、2017年4月9日の礼拝メッセージでした。

0 Comments

Leave a comment